2009年8月31日月曜日

旅行にもって行くカメラ

旅行にどんなカメラを持っていくか?普段使っているカメラを持っていけば小生的にはあまり拘らなくてよいと思う。
デジタルカメラ黎明期、まだデジタル一眼レフカメラという物が一般的ではなかったころ。100万画素もあればビックリしていたような時代、丁度フィルムのカメラから乗り換えたばかりで、デジタルカメラの便利さに感激し、そればかりを持ち歩いた時代があった。一眼レフカメラから乗り換えたのであまりアテにしないで使っていたのだが、意外と「キマった」と思える写真が撮れる事も多かった。我ながら撮り方によっては結構上手く撮れるんだなと思った。

時代は流れ、何処かのカメラ関係のブログに
「最近写真が下手な人っていなくなりましたね。」
というコメントがあったが、なるほど納得である。もはや最近のコンパクトデジカメはパワーがありすぎる位にまでなった。画素数で言えば小生の持っているデジタル一眼のα7などとっくに凌駕してしまっている。故に素人が撮っても、構図さえ良ければ、結構上手く撮れてしまうのである。



個人の趣味でカメラは選ぶと良い。デジタル一眼レフを持っていく場合も、機動性に長けたコンパクトデジカメは必須かも。




コンパクトデジカメの会心の一枚。こんなカメラでもここまで撮れるんだと思った瞬間。




今や携帯のカメラも侮れない存在。一昔前のコンパクトデジカメを凌駕する性能を持つものも。




携帯カメラで撮影。このようなトワイライトシーンはカメラのパワーをあまり必要としないのか。こんな写真も撮れた。




90年代後半の製品の30万画素のカメラで撮影した羽越本線の某名所。最高画質で撮っても640×480というサイズだった。さすがに荒さが目立つ。




同じカメラで撮影。こんなカメラでもこんな一端を覗かせる事もある。やはり色の濃淡の少ない薄暗いシーンの描写はデジカメが得意とするようである。というか、フィルムカメラでこのような写真を撮るのが難しかったため、斬新に感じるのかもしれない。

2009年8月29日土曜日

床下の小窓



コマーシャルの途中、松代PAにて富山地鉄の高速バスに出会った。夜行の折り返し便なのか3列シートタイプだった。このテの長距離バスで小生がひときわ気になる部分がある。それはココ



小窓があり、カーテンがかかっている、撮影寸前まで、扉が開いていたのだが閉められてしまった。ここはナニ?




そう、乗務員の休憩室。






開いたドアから白いシーツの布団が見えていた。バスの長距離運行は確か、時間だか距離だかで運転の交代要員を乗せる事が義務付けらており、運転士の休息室がココ。夜行バスには大抵付けられている。室内外から出入りできるようになっており、室外からはトランク横のドア。室内はトイレの横の掃除用具入れのような扉を開くとここに出入りできるようである。


しっかし、見れば見るほど奇妙な場所にある部屋である。

2009年8月28日金曜日

うっかりペネロペ

録輔画伯シリーズその2。車以外に何か描けないの?とかみさんに言われたので、リクエストをしてもらうと
「ペネロペ」を描いて
との事。

ペネロペ。、、、うかかりペネロペ

朝晩、教育テレビでやってる子供向けのあのアニメ。あのクマを描けというのか、、、、

難しい、難しすぎる。何回描いても石景山遊園地もビックリのドラえもんか、コロ助の偽者みたいになってしまう。














おぃ。それって北海道の土産の置物だろ。

2009年8月25日火曜日

セレガーラ

さっきから布団に入って寝付けないのだが、かみさん曰わく、
「ねぇさっきからエアロキングエアロキングうるさいんだけど。」

との事。よほど、キングキャンパーが気に入ったらしい。さて、男の子の好きなバスの王道は二階建てバスのエアロキングだと思うが、最近のバスでカッコいいのは日野のセレガといすゞのガーラだと思う。実はこの二台は実質、同じ車で大きな違いはリヤのガラスが違うだけって説明したら、何故かかみさんは感心していた。

息子君はというとガーラの方がお気に入りの模様。流石わかる子だねぇ。小生、旧型の頃からガーラのファン。
独特のドルフィンラインを見て、
「セレガだ!」
と思わせて尻のパンダ顔を見ていていすゞだったという意外性も好きだ。

実車はいちおう新型になった事だし、エアロキングのトミカ、出ないかな。

キングキャンパー

お絵かきの話題が出たので。 普段、どんな絵を子供に描いてあげているのかというと、息子は電車より車が好きなので、バスや消防車とかが多い。

で、今日のお題。パパの欲しい車。

キングキャンパー。


なにそれ

エアロキングのキャンピングカー。高速バス仕様の三列シートの中古のエアロキング買ってキャンピングカーにするの。一階はキッチン。二階は前半分を座席に、後ろ半分はカーペット敷きにしてゴロ寝スペースにするの。

子供も真っ青なふざけた発言にかみさんは呆れ顔というか興味なし。

夢がないなぁ。買える訳がないんだし、想像するだけなら無料なんだから。


ねぇ息子君。


と話しかけると


「うーん」


と少し考えたあと消去レバーを一撃!

「ガシャッ!」

2009年8月19日水曜日

夕暮れの碓氷峠



16時56分。しなの鉄道で軽井沢へ。やってきた115系電車は下校の高校生を若干乗せていたものの、考えてみれば夏休み。車内は閑散としていた。現在のしなの鉄道は小諸で運転系統が分かれているようであり、僅かな待ち合わせであるが、小諸で乗り換え。30分弱の僅かな区間であるが、末端のこの区間は1時間ヘッドで系統が完全に独立している。しなの鉄道の最大の悩みのひとつである、複線電化の設備を持て余す区間だ。ウトウトしながら電車に揺られ17時54分。軽井沢到着。
切符を買う際、軽井沢から新幹線ですか?と聞かれたが、碓氷峠をバスで下って、横川へ行く。1997年の長野新幹線開業にあたり、信越本線の横川-軽井沢間は廃止された。66.7‰という規格外の急勾配が介在し、特殊構造の補機、EF63がなければ通過できない区間だっただけに、費用対コストの兼ね合いから廃止に至った。かつては長野から普通列車で帰ってくるとき、トンネルを「ゴゴゴゴ」ユックリと坂を下る音、時折聞こえる先頭のEF63のホイッスルを闇の中ながらに聞くと
「帰ってきたな」
などと思ったものだが、長野から関東へ帰る際の風情ある峠の見せ場は失われてしまった。現在は代行バスが細々と走るのみである。



バスはやはりマイナーなルートなのかと思いながら、バスターミナルへ向かう。長蛇の列となっている隣の東京行きのバスに対し、こちらはガラガラと思いきや、出発時刻が近づくにつれ、アウトレット帰りの若者や登山帰りの外国人を乗せ、結構な人が乗ってきた。確かに時刻表を見ると始発が遅く終バスが早いものの、ほぼ1時間ヘッドで運転されており、普通列車ベースで言えば、鉄道だった時代より本数は多いのではないだろうか。
18時15分。8割方席が埋まった状態でバスは出発した。先発した、先ほど長蛇の列だった池袋行きの高速バスをプリンスホテルに寄っている間に抜き去り、碓氷バイパスへ向かう。そう、このバス、横川までノンストップなのである、プリンスホテルや峠の下の関所跡の入口あたりでも止まってもよさそうだが、今もって代行バスの位置づけで直行である。



18時49分。結構な勢いで碓氷峠の坂を下りきり、日もどっぷり暮れた横川駅に到着。バスから降りた乗客は足早に駅舎へと吸い込まれていく。暗くなり、駅前は至って静か。鉄道文化村も終わる時刻だし、駅前はおぎのや本店の食堂の明かりが点るのみであるが、こちらももう閉まった模様。釜めしは駅の中の売店で売っているようである。
 駅舎へ入ると107系での運用も多い横川までの信越本線であるが、終バス接続のこの列車はカボチャ色の115系での運転であった。チラリと往時を覗かせるような一幕であるが、ホームをせわしなく行きかうEF63の音もかまめしを売る駅弁の売り子の声ももはやなく、ひっそりと列車は出発して行った。





   おわり

ギ洋風建築



15時19分。
篠ノ井でしなの鉄道に乗り換え上田へやってきた。ここで街を散策する事にした。

上田と聞くと何であろう。上田城跡、古い宿場町、別所温泉。いぇいぇ、今回はちょっと目的があって降りたのであるが、お目当ては擬洋風建築。

「擬」とつくのは「模擬」の「擬」という意味。一般的に言えば古い洋風の建物の事を指すのだが、いわゆる「洋館」とか「異人館」とはまた別のものとされる。ちょっと分かりにくかったが、現代風に言えば、輸入住宅と洋風住宅の違いだろうか。今、一般的に住宅街に建っている、洋風の佇まいの住宅は、洋風住宅であって外国の住宅をそのまま輸入した輸入住宅とは異なるものである。大きな相違は間取りではないだろうか、大抵の住宅は1間、(約1.8メートル)ピッチで間取りが計算され、柱が立っているはずである。それに対し、本物の輸入住宅は輸入先の規格によっているはずである。

 さて、擬洋風建築は東京などの都市部にある西洋の正規の建築を学んだ建築士が建てた建物を地方の棟梁が見よう見まねで模して建てた物であるとされている。有名なものに同じく長野県の開智学校などがある。洋風の外観に対して、龍が舞っている彫刻が施されていたりと、奇異なデザインが見られるようであるが、そもそもの違いは尺貫法の間取りで、和風建築の技術によって建てられているのである。今となっては少々では正規の洋館との見分けがつかなくなってしまっているが、当時は紛い物としての見方も多かったようである。しかし、時は経て戦後になり、今では文化財に指定されるなど、見直されているのである。

こういった建物は中央との結びつきが強かった地方都市に多いようである。地方に行くたびにこういった擬洋風建築に触れるのが小生の楽しみであるが、何といってもの醍醐味は擬洋風建築はその生い立ちから、民間人が建てた物が多く、代々受け継がれ、現在も現役な物も少なくないのである。



上田もそんな都市のひとつで、養蚕業を介して横浜などの中央との繋がりが強かったからか、このような建物が多いようである。そして、家人の手により大事にされている擬洋風建築が多い街である。写真は旧松高眼科医院。ここは実は小生の学生時代の後輩の実家なのであるが、上田の擬洋風建築の存在を知るきっかけとなった建物。玄関周りの木が邪魔して、また通りも狭いので、全貌を見渡すのが困難なのが残念だが、住んではいなさそうだが、何かしらに使われている雰囲気である。



余談だが、こちらはその一世代後の松高眼科医院。こちらもこちらで昭和レトロにジャンル分けされそうな建物で好きだ。新館開業により、ここも閉院されている。上の建物より芸術性が低いためか、正面の「移転しました」の看板が残念だ。でも、取り壊さない持ち主の心意気が嬉しい。



こちらは多分民家だと思うが、塗りなおされたライトグリーンが美しい。



家人の生活が感じられる玄関周り。



上田養種協業組合。この建物はひときわ大きい。そして驚く事に今も現役!窓をチラリと覗くとデスクに向かう事務員の姿が見える。



現役なので、受付で断ってから、恐る恐る入る。その受付があるエントランス周りが現役クラシックで実にイイ。鉢植えの観葉のシュロチクというチョイスが憎い。



艶やかな雰囲気の廊下。ドラマに出てきそうだ。この廊下、外観に対してどこか「和」っぽい感じがしないだろうか。これが擬洋風建築の良さ。だいいち、この磨かれた床は靴を脱いで上履きで歩くんじゃないだろうか?いかにもウソっぽい洋風建築そしてこの建物の「擬」を発見した瞬間。



           終章へ

姨捨駅






美術館から歩くこと30分。だいたい、3Kmくらいはあっただろうか?北細野駅に到着。ここから大糸線に乗り松本へ。11時05分。やってきたのはE127系100台。車内はなんと立ち客も出るほどの満員。白馬や大町あたりから乗ってきたのであろうかザックを持った登山客風の人が多い。街歩きの小生は偽者っぽくていささか恥ずかしかったが、荷物が多いのが中和できたのは良かった。





しかし立っていると時間が過ぎるのが遅い。なかなか松本に着かない。松川から松本の距離はだいたい25Kmくらいなのだろうが、どの電車も40分くらいかかっているようである。そもそも大糸線が戦前の私鉄買収の国鉄線であったため、駅間が短く、こまめに止まるから時間がかかるようである。
実は美術館の芝生で時刻表をパラパラ見ていたのだが、諏訪方面に進路を取って甲府、新宿へと抜けるだけではなんとなく、味気ない。そういえば、姨捨駅へ行った事がないのを思い出し、途中下車できないかと調べると、1時間半くらい時間が取れそうだ。しかもラッキーな事にしなの鉄道方面へ進路を取っても、上田や小諸あたりで同じく1時間半くらい時間が取れそうだ。そこまで途中で降りても問題となる軽井沢から横川の碓氷線の終バスに間に合うのである。進路は決まった。姨捨駅で降りて周囲を散策し、上田か小諸あたりで街歩きをした後、軽井沢から碓氷線バスに乗り横川へ下るルートを取る事にしよう。

11時47分、松本到着。ここからは篠ノ井線に進路を取る。11時59分。待っていたのは115系電車。最近は新形式電車が多いためこんな電車を見るとホッとする。篠ノ井線は急勾配が続く上、保安装置もATS-Pとなったため、115系のみの運転のようである。三々五々、ボックスシートに2人ほどが座る程度の乗車で列車は出発した。

12時42分姨捨到着。姨捨駅は最も有名なスイッチバック駅なのではないだろうか。何しろ駅からの景色が素晴らしい。



姨捨駅を出発してゆく115系電車。ヘッドライトが点いているが、列車は写真奥の方向へとバックしてゆく。出発信号機が黄色を現示しているのに注目。写真奥の引込み線へ一旦取り込まれた後、方向転換をし、画面左下の急勾配を写真左の方向へと下ってゆく。




思わず見入ってしまう絶景。日本三大車窓に数えられている風景である。今日は残念ながら少々ガスがかかっていた。




しんみりとした雰囲気。列車が行ってしまうと。遥か上方をかける高速道の音のみ。



時間があったので、長野道の姨捨SAまで登ってみる事にする。駅を左に出て、スイッチバックの踏切を過ぎ、崖を上ってゆく。本当にSAがあるのか、あったとしても入る事ができるのかと不安であったが、
間もなく、
「姨捨SA、ETC専用入口。姨捨バス停。」
の表示が。ETC入口はともかく、バス停の表示があるという事は合法的にSAに入るための徒歩入口があるという事。これはラッキーだった。






さらに崖を上ってゆくが上方に見える姨捨SAが、まるでピラミッドみたいに見える。想像していた以上にキツかった上り坂を汗をかきかき上ること20分。姨捨SAに到着。バス利用者用駐車場の隅にある階段を上ると無事に入場する事もできた。ここで昼食となる。



姨捨バス停。松本-長野の高速バスはほぼ毎時出ているようなので、駅からSA(その逆)の、こんな乗り継ぎをしてみるのも面白いかもしれない。



駅へ戻るとちょうど入線時間だった。



ユックリと近づいてくる115系電車。松本からの到着は一旦ダイレクトに駅ホームに進入する。写真左下から急角度で上ってくるのが本線。こんなに勾配がある。


篠ノ井線は名古屋と長野を繋ぐ幹線といった感じの路線で運転本数は結構多い。東京方面から長野への貨物も篠ノ井線を経由して入ってくる。で、あるから姨捨駅での交換や追い抜きも見られる。スイッチバック駅のため、交換といっても同じ方向に電車が入ってくるのでちょっとややこしいが興味深い。小生がSAへ上っている間、しなのが二本程、面白い所で、廃車回送の209系を引いたEF64も通ったので、駅でその通過や退避の様子を観察していても面白かったかもしれない。



姨捨からのパノラマ風景の中を特急しなのが快走。車内の観光客のウットリした表情が見えそうだ。


珍しい、急勾配と209系。本来の長野への廃車回送ならばこの写真の左側、長野方に機関車が付くはずだが、今日は逆。松本方面へ向かっていった。一度長野へ廃車回送された車両を何処かへ転送するのだろうか。




14時01分、姨捨を出発すると、次は稲荷山のはずなのに途中でスローダウン。なんと信号場に入線した。桑ノ原信号場。ここもスイッチバックの信号場。松本からの電車は一旦、引込み線に入り。水平にバックして信号場へ入線。姨捨駅と逆の構造だ。ここで退避列車を待つ。



ほどなくしてしなのが松本方面へと山を上っていった。すれ違いだ。

姨捨駅と逆構造のため、長野へ向かう列車は信号場からダイレクトに下り坂に踊りだす。坂を下って市街地に下りると稲荷山。そしてしなの鉄道との分岐駅の篠ノ井に到着する。14時27分。篠ノ井からはしなの鉄道経由で軽井沢へ向かい東京方面を目指す事にする。



    続く。

安曇野ちひろ美術館


小生、美術館とか史(資)料館巡りが好きだ。旅行途中に偶然見つけてフッと入るのが好きである。今回は前々から目にはしていた場所であるが、いつもは先入観なしで入る。すると、こう、色々と新鮮な発見があるのである。

坂を下ってやってきた、ここの美術館は安曇野ちひろ美術館。


いわさきちひろ


かみさんは知っていた。絵本作家である。

そういえば子供用の絵本のカタログに載っていた。


いわさきちひろは子供をモデルなしで水彩画で描き続けた画家。ちひろが活動していたのは東京であるが、戦後、両親が開拓者として入植していたのが、この安曇野は松川の地。東京にも美術館があるが、折に触れてちひろが訪れ、過ごした、安曇野の地にも美術館が開かれた。ここにはちひろの作品をはじめ、世界の絵本が多数収蔵されており、自由に閲覧できる部屋もある。今度は息子と一緒に来たくなるそんな雰囲気の美術館である。



ちひろの作品で描かれているのはのはちょうど小生の息子くらいの年頃の子供だろうか。物心つき始める淡い年齢の子供の心が淡いタッチの水彩画から伝わってくる。戦後まもなく、当時、アクリル絵の具が普及しだした頃であったが、ちひろは敢えて水彩画に拘り、世界を高めたそうである。絵本独特の「ベタァーっ」とした色使いではなく、あくまでも淡く描かれている。

しかし、水彩画でこんなに迫力のあるものを見たことがない。多分、小生が父親になって間もない親であるからかもしれないが、笑い声や泣き声をはじめ、子供独特の物事を発見するときの感情といったような、子供の息遣いが聞こえてきそうなのである。こんな事、30を超えて父親にならなければ判らなかったであろう。明らかに20代では感じ取る事のできなかったであろう感動である。

小生もたまにウェブの企画で猛烈にヘタな絵を描くが時代は進みPCによる作画。もう、エンピツも持たない。ベタ塗り度ではアクリル絵の具を凌駕する。流石に子供に絵を描いてあげる時は、PCという訳にはいかないのであるが、紙ではどうもシックリ来ないため、タカラの「せんせい」を愛用している。これまたベタ塗り度の高いアイテム。ベタ塗りの絵ばかりに接してきたからであろうか、この水彩画には衝撃的な感動を得た。さっきから感動した感動したと小泉元首相ばりに大げさすぎるが、意外な事に事実今まで来た美術館の中でいちばん感動したかもしれない。

水彩画がこうも訴えかけてくるものだろうか。30分居てすぐに信濃松川駅まで歩けば、大糸北線の旅ができたので、内心、ざっと見て出発してしまうのも選択肢にあったのだが、入館後まもなく、そんな気持ちはすっかり何処かへ行ってしまい、すっかりユルリとした時間を過ごし始めてしまった。



列車まで時間があるので、館内を見た後はお土産に、息子に展示で見たお話の絵本を買ってあげて、安曇野が見渡せる屋外の芝生へ。

「ふあああぁぁぁぁ」

「天気がいいねぇ」

広い空、青い田んぼ、大きい山並み、かつてちひろが目にしていただろう景色の中、、、、芝生で。





寝る。










プルルルル出発の時間ですよ。


さてと。そろそろ出発するとするか。

ムックリ起き上がって時刻表を見ると。11時05分に松本行きがある。日本海側へ抜ける北回りのルートはもはや乗り継ぎが悪い時間になってしまったので、松本へ進路を取る事にした。ここから信濃松川駅と松本側の隣駅の北細野駅はほぼ等距離なので、運賃が安いであろう松本側の北細野駅へ向かう事にする。


続く。

安曇野


あれ、見覚えがあるタイトルと景色だな。




はい。来てしまったプライベートで来た安曇野。しかもまだ3日後。




「こんな所で降りるの?」

といぶかしまれながら、ゴロゴロと音をたて立ち去り小さくなってゆく車のテールに全く不安を感じないのは、ここは駅が近いと知っているから。ここから近い大糸線の駅まで歩き、後は気の向くまま家路に着こうという、毎度ながら安易な計画である。




この坂は毎回通る度に美しいと感じるポイント。残念ながら北アルプスは背後になってしまうのだが、細く長い下り坂の向こうに青々とした田園風景が広がる。宮崎俊作品に出てきそうな景色である。今日は徒歩でここに立っている。この長い坂を下りてゆくと美術館がある。毎回コマーシャルで通る時に気になっていたのだが、土日となると結構な人が訪れる美術館だ。今日はまずここに寄ってゆっくり時間を過ごしてから行き先を決めようと思う。

昨晩、ざっくり時刻表を見たところ、大糸線に乗ったら北に向かうか南に向かうかであるが、北ルートで帰る場合、南小谷、糸魚川、直江津、ほくほく線、六日町、越後湯沢、水上、高崎と経由して帰着する事はできるが、途中下車のタイミングがほとんどない上に南小谷をはじめ、途中駅で乗り継ぎが悪くかなり待たされる。一方南へ行くルートでは松本、篠ノ井、上田、軽井沢、高崎と経由するシンプルなルートながら、列車本数も多く途中で色々と散策時間が取れそうだ。

現在時刻は8:30。大糸線の始発に乗って南小谷に入れば、北へ向かっても色々と寄れる場所は多いのだが、美術館が9:00開館。そこでどれだけユックリするかによって行き先の選択肢が大きく変わるので、まずは美術館へ、、、。


長いくだり坂をトコトコ下る。


トコトコトコトコ。




トコトコトコトコ。




             続く。

プログラムAE

自分でいうのも難だが、小生、写真を撮るのが下手である。だいいち一眼レフでもプログラムモードでないと撮れない。この明るさならこの露出で、と計算して絞りとシャッター速度が自然に分かるという、、つまりフィルムとの会話ができないのである。

フィルムカメラの8700iを使っていた頃は完全にプログラムモードに頼りきりで、それこそ幅の狭い写真ばかり撮っていたが、 状況を画期的に変えてしまったのがデジタル一眼の登場であった。

ビデオカメラで馴らした感覚があれば結構簡単に撮れる。シチュエーション毎の自分の好みを123とプリセットしておき、ホワイトバランスを視覚に近い太陽光モードで固定。後はレビュー画面とヒストグラムを見ながら微調整する。画面をみながらダイヤル回して露出を出すというのはビデオカメラの技法。そもそも問題は一枚目をみなきゃ露出が出せないのだが、そこはカメラが非力故にメモリーに余裕があるので、何枚も撮ってカバー。アプローチからしてフィルムのカメラと違う。
失敗したら失敗したで、レタッチ補正して「自称」芸術的な処理を施して出力するという反則技。これでは上手くなる訳がない。

フィルムと会話はできないくせにあのちっちゃい液晶画面に翻弄されて変な癖がついてしまったようである。


いいんです、プロフェッショナルじゃないんで、それなりに撮れれば。



以下は実際の撮ってる時の心の中の声である。

これは上田の街中で見つけた心惹かれる民家。こういう古い家を大事に使ってるっていいですね。
さて、路地が狭くて、この角度から撮るしかなさそうだ。しかし建物の裏側に太陽がある最悪のシチュエーション。時間と場所が限られる旅行写真の最大の泣き所。フィルムのカメラで撮ったら恐らく、暗く潰れるであろう建物。




1/640 F5.6 ISO100

予想道理。カメラのプログラムAEは空の明るさと建物の明るさの平均値を出してきた。こりゃアンダーだ。建物のディティールが良く判らない。ヒストグラムも左側にピークがあり、黒つぶれを表示。確かに黒い門扉のディティールが真っ黒に潰れている。次2枚目。





1/125 F9.0 ISO100

一度ターゲットを下に振って測光し、AEロックをかけて撮影。うーん。まぁまぁかな。全体的に黒いイメージだからか、ヒストグラムが左に寄ってるけど。こんなもんじゃねぇべか。微妙に黒のピークが出てるが、それは多分、門扉。妥協の範囲でしょ。ちなみに、もう少し明るくしてみよか。3枚目。





1/80 F4.0 ISO100

上の写真にプラス1.3補正にして撮影。あちゃー駄目だこりゃ。裏手の建物まで完全に白飛びしてる。左からのすべり台のようなヒストグラムになる画像のはずなのに逆に上り坂。結局



2枚目だね。撮影データは写真毎にカメラに保存されており、α7特有のスイッチの位置や補正した痕跡なども後でも判る。これは便利。

2009年8月17日月曜日

安曇野


お盆休みも終わり、本日よりコマーシャル再開。盆明け一発目は長野。長野はいい。特に安曇野は最高だ。



雪渓を頂く山


澄んだ水


そして道祖神


安曇野は小生を魅了してやまない。長野のコマーシャルは移動距離が長い上に時間が無く、ハードなのであるが、安曇野の風景に触れると疲れも吹き飛び、不思議と毎日来てもよい気分になる。


本音は、できれば、コマーシャルではなく、旅行で来て、ユルユルと自然に抱かれた時間を過ごしたいのだが。

2009年8月16日日曜日

携帯電話


昔の旅、特に複数人で旅行する場合は、出発前に行程を打ち合わせを行い互いの計画を綿密にチェックし、現地での集合場所を打ち合わせたり、また、実家にいる互いのおふくろさんは良き留守番電話代わりであった。

そんなノスタルジーな話はさておき、今や旅行に持っていく荷物として、携帯電話を上げない人は希少であると思う。そんなこんなで、欠かせないアイテムの携帯電話であるが、旅先での携帯電話のトラブルのNo1はバッテリー切れであろうか?

まずは、バッテリー切れにならないように、使用頻度に合わせて「充電計画」を建てたい。1年以上使っている携帯電話ではバッテリーの性能が極端に落ちている場合があるので注意。特に圏外の区間を長く移動する場合は、基地局を探して電波を出し続けるのでバッテリーの持ちが悪くなる。最近の携帯電話は電源OFF時の着信履歴を教えてくれるものが多いので、寝るときや、電話を取る必要がない時は電源をOFFにしておくとバッテリーの持ちが良くなる。

しかし、宿に泊まらない旅の場合など、どうしてもバッテリーの残量がピンチの時は何処かで頼んでコンセントを貸してもらうしかない。小生、昔は良く、充電器と一緒に二股タップを持ち歩き、電源が取れる場所があれば、よく充電していたのであるが、モラルとしては、必ず一声かけた方が良い。

先日、携帯電話の無断充電で摘発された女子高生の話が報道されたが、小生は相当ショッキングであった。そもそも充電の電気代なんぞ、1円以下。そんなんで検挙するのも大人気ないと思われるが、どういう態度で充電したのか知らないが、結局はモラルの問題だろう。小生世代では少年の頃の昔、友達の家や出先の民家、商店で公衆電話でない普通の電話を借りるという事を良くやった。最後にお礼に10円玉を置いて来るというのが親から教わったマナーであったが、携帯の充電をする場合も10円玉を置いてくるような気持ちが必要なのかもしれない。ともかく、まずは、コンセントを差し込む前に、一声かける。そして、断られた場合に備えて電池式の充電器を持っていくくらいの、つまり「気持ち」と「準備」が必要。

最近の携帯電話は通話はもとより、空港へのモノレールにSuicaを使うのは当たり前、ターミナルのショップで電子マネーを使ったり、待ち時間はネットで暇つぶしをしたり、万一、道に迷ったらGPS機能は非常に強力な味方になるし、コンビニなどのショップや観光施設を探す事も。旅行の時は多機能携帯は非常に便利である。

2009年8月15日土曜日

CRTモニタ


小生の場合、自作のPCの場合、特段の不都合が生じない限り、PCのパーツは壊れるまで使う。ここ10年で言うと昨年交換したATXミドルタワーのケースに対し、中身のマザーボードは1回交換したが、CPUは2回交換。一番交換頻度が多かったのがHDDで5回。(HDDは結構壊れた。)キーボードが2回。(キーが効かなくなったりのトラブルは良く発生していた。)プリンターが1回。(あまり印刷頻度は多くないので良く持ったほうだと思う。)等、そんな中、いちばんしぶといのがコレ。


モニター。
(三菱製ダイヤモンドトロン17インチ平面ブラウン管)


もはやCRT(ブラウン管)のモニターを使ってる人って少なくなったのではと思うが、これがなかなか壊れない。SONYのトリニトロンや三菱のダイヤモンドトロン、即ちアパーチャーグリル方式のブラウン管はにじみの少ない美しい発色をするが、欠点は寿命が短く、すぐに壊れた。だいたい5年を過ぎ、10年の声を聞くと、「SONYタイマー」とか「プッチン病」とか言われて使えなくなったものだ。小生、高校の時は映像機材が豊富にあった放送部だったのだが当時、機材が全てSONY製で、トリニトロンのモニターに関してはかなりの台数が10年経たずに経年によるプッチン病でお亡くなりになっていたように記憶している。
もっとも三菱製は、SONYのライセンスで作ってるのは画面の表面部分でビーム部分は3ビームだったりと仕様が違うらしいから、トリニトロンと単純に比較できないが、小生のモニターは壊れずに、よく持っている。

場所を取る以外は特段の不都合がある訳ではないので使っているのであるが、オフィスなどでは今や絶滅したのではないだろうか。これを購入したのが2000年頃だったと思うから、まさにトリニトロン、ダイヤモンドトロンといったアパーチャーグリル方式の平面モニター全盛期。当時、まだ液晶モニターは高かったし、廉価モデルは色の再現性やが悪かったり、角度によって見にくいといった問題を抱えていた。液晶モニターが流行り出したが色に拘るクリエイターはCRTを好んで選ぶような風潮もあった。

しかし、それから液晶モニターの普及は凄まじかった、5年もすると、PC用はおろか、家庭用テレビまでもがほぼ液晶に置き換わったのではないだろうか。昨年は終に海外向けのトリニトロン管の製造が終わったようで、この手の管に親しんだ身としては感慨深い。

CRTに慣れてしまうとやっぱり発色などで、どうも液晶には抵抗があるのであるが、大きい、場所を取る、アパーチャーグリル管特有の2本のダンパー線の影が出るなど、不満がない訳ではないが、まぁ、これも壊れるまで使われるのだと思われる。

2009年8月14日金曜日

PUBLIC DINER

今日は息子の誕生日なので熊谷のPUBLIC DINERに食事に。

PUBLIC DINERは「はやい、うまい、やすい」の大衆食堂、加賀家食堂のプロデュースする洋食屋さん。大衆食堂の本家加賀家が先代から引き継ぎ、モダンテイストなダイニングに変わって久しいが、PUBLIC DINERは恐らく、マスターが満を持して作っただろう、洋食屋。

行ってみると、ガーデンテラスや二階バルコニー席があるモダンな建物。雰囲気の良い店でカップルや女性同士の客も多い。本家加賀家は大衆食堂にモダンテイストを加えたという店でどちらかというと男性をターゲットにブレイクした店だったが、こちらは逆にモダンな洋食屋に大衆食堂テイストを加えた店で、どんな人とでも行けそうだ。

中に入ると子連れを気遣って「お座敷へどうぞ」との事。案内されるとフローリングのお座敷が。本家加賀家は子供が泣いてもOKの食堂だが、こちらは、メニューに「子供を泣かせもよい」という名物の記述は無かったが、子連れへの気遣いが随所にあってうれしい。

さて、かみさんは白身魚のフライセット、小生はハヤシライスのセット。出てきたのはいかにも、お洒落なセットだが、スープとライス、サラダが付いて、890円と大衆食堂価格なのが嬉しい。セットは日替わりのサービス価格だが、レギュラーメニューでの価格もちょっと高いだけ、大衆食堂価格である。味は加賀家独特のテイストがしっかり洋食に移植されている。good


ところで、PUBLIC DINERって大衆食堂って意味?

流石。


フローリングのお座敷。フローリングは子供がダイナミックに食べても拭きやすいので良い。子供用の椅子がさり気無く置いてある配慮も嬉しい。


こちらにもあった。加賀家名物、コミックのライブラリ。雑誌や玩具類も充実。将棋板まである。本家加賀家はマンガや雑誌を読みながらダラダラと食べるのがOK(注意してはいけない)というスタイルだったがこちらでもOKのよう。