2015年4月30日木曜日

α7フィルム機がやってきた


α7フィルム機がやってきた。もちろん中古なのであるが、お値段がビックリの6900円。どうもグリップにベタつきがあるのと傷があるのでランクB。保障はついてないが、レンズをマウントして空シャッター切ってみた感じ問題なさそうだ。まぁ6900円だから万一、不具合があってもそれなりに諦めがつくというか。
 今からフィルム撮りを始める人は機械式を選ぶ傾向にあると言われるとうり、ミノルタが作った銀塩カメラの極地であり、最終形であると言われた機材、ランクBとは言え6900円とは何とも悲しい。ちなみにカメラグランプリ2001を受賞。銀塩、フィルム機として最後に同賞を受賞した機材である。
 何故来たのかというと、α8700iのファインダー内の液晶の液漏れが悪化し、とうとう、読み取れなくなったから。過去に修理に出そうと思ったらすでに部品が無く、「軍艦上部ディスプレイ」で確認して下さいというアナウンスだったが。ファインダーを覗いて、露出の値が分からないというのは、いささか支障をきたす。
 そんなもんでしばらく放置していたのだが、何気なく、α7っていくらするのかなと思っていたら、何と美品で1万ちょい。小生が買ったような、何か汚いなどの、難あり品だと7000円といった所が相場。いやいや、キヤノン使いの夏男君も、いやぁ、α7だけはもうちょい、2、3万くらいはして欲しいと思っていたようで。安く手に入ったのは嬉しいが複雑な気持ちである。

 まだ使い込んでいないので、なんともインプレできないが、レンズをマウントして、空シャッターを切ってみた感じ。操作系はほぼ、α7デジタルと同じである。デジタル機特有の設定がないので、その分のスイッチがないので、スイッチ類はα7デジタルと比べると、かなり少なく、スッキリした印象。
 ただ、モードスイッチや、便利だった、露出の+-ダイヤル、AELボタン、連写ノブ、露出ダイヤル、AF/MFボタンなどは、ほぼ、α7デジタルと同じで違和感がない。
 それまでのモデルでは、軍艦上にあった、ディスプレイが背面に移っており、ここに撮影データが表示される。軍艦上面にも小型のディスプレイが残っており、絞りとシャッター速度は表示される。これは親切だ。(SONYのαになって、結局は軍艦上にディスプレイは戻るのであるが、、、。)

 さて、ここで改めて、小生のα遍歴を追ってみようか。


α8700i

 1992年購入。
 これは高校に入る時に買ってもらった機材であり、初めての自分のカメラであった。ただ、周囲に写真に詳しい人があまり居らず、ほぼ、「P」モードでの撮影と後述のカード機能による撮影がほとんどであった。用途は旅行写真。今で言えば、コンデジなどで撮るような写真を撮っていたが、ちょっとしたテツ撮りもやったりしていたので、これ1台で色々こなしていた。最も旅したカメラでもある。
 機材としては、α7700iと共に平成一桁を代表するカメラであった。カードを差し込むと、様々なシーンを再現できるのが売りであった。私はS(スポーツ)カードとT(トラベル)カードを持っていたが、今思えば、シャッター速度優先と絞り優先で、解決できるのではと思ってしまうが、まぁ、Sカードは速い被写体を考える事無く追えて、Tカードは考える事なく絞り気味にして、旅の撮影で、背景がボケないようにできたので、あながち、悪いシステムではなかったと思う。
 ある意味ミノルタが一番輝いていた時代の機材かもしれない。ちなみにTBSの秋山さんと共に宇宙ステーションミールに持ち込まれたのもこのカメラで、白い「ミール」バージョンの限定版が販売された。

α7デジタル

 2006年購入。
 大学に入り、鉄研であったために、ある程度テツ撮りを教わったのであるが、時代はデジタル黎明期。35万画素、80万画素、100万画素とコンデジタイプのデジタル機が普及しだし年々進化していた時代において、小生もしばらくはカメラはコンデジに傾倒していた。デジタル一眼が現れたのは2004年頃であったか。2006年に買ったのであるからα8700iは10年の長きに渡ってメイン機であったかのように思われるが最後の5年ほどは、コンデジに用途を奪われ、テツ撮りからも遠ざかっていた。
 正直言えば、もうミノルタの斜陽は目に見えていた時期で、このデジタル化を期にキヤノンとニコンにマウント変えした人が多かったように思う。小生、α7フィルム機に少々憧れていた事もあって、それと非常に良く似たこのマシンは610万画素と若干画素数に不満があったものの、選択してしまった。結局この機材でテツ撮りを始めたようなもので、80-200F2.8のHIGHSPEED APOを中古(中古で15万もした)を買ったのもあいまって、変な時期にAマウントから身を引けなくなる結果となった。
 機材としてはカメラグランプリ2005を受賞したとおり、画素数やAFエンジンをα7フィルム機ではなくαSweetから引き継ぐなど、若干性能がスポイルされている面もあるのであるが、バランスが良いと言われていた。特にCCDセンサーはポジフィルムを意識してるのか、独特の発色をするため、コアなファンも多かった。

α77

 2012年購入。
 現在のメイン機。α7デジタルの購入から6年が過ぎ、いい加減610万画素がボトルネックなのと、撮影性能もキヤノンのハイミドル普及機のEOS7Dと比べるとどうしようもない差を感じるようになってきた。そこへ2011年に満を持して現れたのがα77。特徴的なのは光学ファインダーを廃してEVF(有機EL電子ファインダー)となり、ミラーレスとも言える設計。これは賛否両論で意見が分かれる所であるが、私はドツボにはまってしまい。これを待っていたんだとばかりに、熱が上がってしまった。端的に言えば「簡単に撮れる」。
 現在、α77IIが出たが、おおむね7年サイクルで寿命が来ると言われている、昨今のデジタル機事情、次のフルモデルチェンジまではこれを使いたい。



 4台のαが並ぶ、全機、実働を維持しているが、実際の所、デジタル機はα7デジタルは性能的に引退に近い。α77がメイン機。そして、フィルム機も、前述のとおり、α8700iのファインダ内液晶に問題があるため、今回加わったα7フィルム機がフィルム撮り機として稼動しそうだ。


 フィルム機としては、機械式のSR-T101の方がメインと言える存在なので、α7フィルム機は、101と2台持ちで、101に手に負えない、先進のAF/AE機能が必要な場合に出動する存在になりそうだ。













2015年4月29日水曜日

春の足利




以前、足利に行ったことあるのであるが、今回。しばらくフィルムを通してなかったので、機械式カメラのSR-T101の慣らしもあって足利へ行ってきた。前回。だいぶポシャった感じであったのだが、今回は遊び切れないくらい、楽しめた。SR-T101の撮影内容は2週間ほどかかかる見込み。この辺が今時のポジフィルムのクオリティ。今回はコンデジとスマホのカメラで同時撮りした内容。

 渡良瀬橋。森高千里の渡良瀬橋の歌詞から足利に入る人多い。実際歌詞に歌われている所に行くと?アレと思う。渡良瀬橋より中橋の方が綺麗だし。八雲神社より織姫神社の方がメジャースポット。床屋の横の電話ボックスなんて、本当に市街地としては外側の方。多分、そういうメジャースッポトじゃない、普段の少女の目線の足利を唄ったんじゃないのかな。
 歌詞で彼氏が足利にやってくるシーンがクライマックスであるが、恐らく東武伊勢崎線の足利市駅から降りて、渡良瀬橋を渡って、八雲神社を経由して、少女の住む床屋の傍の、北西部へ歩いていったのだと思う。


足利は渡良瀬川を挟んだツインズシティ。北のJR両毛線の足利駅サイドと南の東武伊勢崎線足利市駅サイドに市街地が分かれるが旧市街は北側。南側は新市街で、東武駅を中心に50号まで、住宅街や大型店など。結構雰囲気が違うが、数本の橋で結ばれている。
 観光客はなぜか、若い女性が多い。


実際の所の足利学校と並んで、いちばんの観光名所は織姫神社かな。縁結びの神様。春の祭りという事もあって、若い女性や家族連れで賑わっていた。

織姫神社から市街を望む、これは南西方面。市街地が途切れる方向かな。それでも、眼下に渡良瀬川と両岸の市街地が見える。


物外軒の特別公開をやっていた。少し歩きつかれたので、正座して、ゆっくり庭を楽しむ。疲れが抜けてゆく感じがいい。こういう時間を忘れそうな、文化な午後ってイイ。


街中ハイクコースとしてはいちばん北西の端。結構まだか、まだかと距離がある。床屋の傍の電話ボックス。あえて保存してある。電話機はグレ電である。歌詞の頃は緑電話だと思ったから。ここは最近、標準の、緑色のISDN電話に変えてしまってもいいと思うのだが。


八雲神社。本当に歌詞に出てくるところって、観光客とは隔絶された、ひっそりした所が多い。ここも織姫神社のすぐ前であるが、ほんとうに、静かで、うっそうとした緑が綺麗な所。誰にも邪魔されない静かな時間を過ごすのはいい。


フィナーレは市立美術館。蘭華さんのライブ中「ねがい歌」。すげぇ上手いなぁ。と思ったらメジャーデビューするようで、7月22日に

蘭華「ねがいうた/はじまり色」(avex trax)2015/07/22発売  
AVCD-83309 税抜価格:\1,111

決定。結構好きなタイプである。

さて、ここは井上陽水の長い坂の絵のフレームのように、美術館で考えながらユックリといきたい所なのだが。この美術館が想像以上に良くて、勿体無い事をした。これは歩きとは別に2時間とか時間を取って来たほうが良い。せわしないハイクの途中に寄ってしまって失敗した。


気温は高いけど、終始くもり気味だったけど。夕方になってから、空の青みが出てきたかな。中橋。やっぱり橋や街のロケーションとしてはこの橋が最高だな、ツインズシティの感じがよく出ている。
足利まつりはGW中開催。期待以上でした皆さんもぜひ足を運んでみてください。


ちょっと入場料が高いけど。臨時列車も運行中。


はい、で、美術館で時間がなかっ理由は、その臨時列車。大平下-岩舟まで行って見て撮った。あの新潟で出会ったT18編成。引退するようだが、最後の花道がこの足利藤まつり号での運用。茨城方面からのお客様を水戸線経由で輸送するために、交直両用の485系が抜擢された。
前回新潟では3つ目サイドしか取れなかったので1500番台の4つ目サイドを狙ったのであるが、時間的にちょっと、というかかなり厳しかった。それでも、何とか、黄昏時の麦畑をゆく感じは出たかな。

両毛線 岩舟-大平下 2015.04.29 α77+MINOLTA HIGHSPEED APO 80-200 F2.8


おつかれさまでした










2015年4月28日火曜日

撤収

東電道の撤去も、とうとうフラワー通りまで来た。最後のスロープの解体。4月末。連休前に撤収完了の見込み。半年間お疲れさまでした。
 新47番下では暗渠排水の復旧が行われた。実際の所は素焼き管なので、経年と機械の大型化とプラウによる深耕をする人も居たりで破壊されてしまっているのであるが、丁寧に復旧してもらった。30PS級までしか入らないウチの水田下からは綺麗な状態で出てきた。プラウで転地返しした上に、70PS級が入るとズタズタになってしまう。


さて、耕運、
「ガン!ガンッ!」
硬っ!!



2015年4月23日木曜日

今年初めての6m、Es


家族でウィルス感染してしまい、発熱、下痢、嘔吐。

結局寝込んでいたのであるが、スマホをいじっていると、Es(Eスポ)出ているっぽい。
6mのEsはなかなか難しい、休日と重なるかどうかが最大の問題。ここの所開くも平日ばかり。今年はまだ、6mEs開いてないなぁ、昨日は国内も開いていたようであるが、と、、VFOを回してみると。ン?VK(オーストラリア)が開いている。

最初、CWで聞こえていたのであるが、パイルアップに勝てず、撃沈。

更にVFOを回すとフォーンで聞こえる。あぁ、、パイルアップになってるな、ウチのアンテナじゃ、55しか振れないよ。と思いつつ呼んだら、アッサリつながりました。タイミングかな、、。



2015年4月21日火曜日

竣工


11月より続いてきた、行田線建替。とうとう完成したようだ。

若番側より、新75番方向を望む。こちら側から資材の撤去が進む。

老番側より新74番。鉄板を撤去した跡がずっと路のように連なる。契約は4月まで。貸している鉄板下と柵の内側は、草ぼうぼう、早く起耕しないと、、。

半年弱、活躍した東電道。用水路をまたぐ箇所。
70トンクレーンの荷重にも耐えた。


入り口側より工区を望む。奥で撤去作業。
盗難防止のため、これでもかというくらい溶接がなされている。


もうすぐ工事もおわり。




2015年4月20日月曜日

モービルのCWパドルの位置を固定。

走行中に打つわけではないのであるが、モービル内でどこがパドルが一番良いか考えたら、結局、パワーウィンドウスイッチの上になった。そもそもモービルのスイッチは操作性とリーチを巧みに考えてあるのであるが、パワーウィンドウスイッチの位置はリーチも近く、手首を着けて打つこともできるので、場所としては非常に良い。ローカルのモービルCWをやっているOM局のパドル位置をみさせてもらった事があるのであるが、やはりこの位置であった。ただ問題はスイッチの上に固定してしまう訳にはいかないので、反転式のギミックを作ってみた。


こんな具合で設置されている。結構すんなり収まっているし、非常に打ちやすい位置にある。(ケーブルは、ドア下から周りかつジャックを設けるように処理した。)

パドルを使わない時はまず、マジックテープでついているパドルを外し、、

蝶番を反転させると。パワーウィンドウスイッチが現れる。
この状態が定位であるが。

先日、北本市に移動運用に行って、このパドル位置で打ってみた。固定が難しいモービル内のパドル位置において、ここは、正しい姿勢で打てるし。なかなか良かった。探した蝶番がステンレス製で見た目は良いのだが重いのが難点なのであるが。ちなみに現況強力両面テープでついている。パドル使用時にはスイッチ上に反転するので、重力は両面テープ部にかからない。マジックテープを使っているので心配だったブレであるが、ピコパドルと違って底面積があるのと、蝶番の出っ張りに沿って取り付けると左右動が起こらないので、軽いパドルながら、左手で、抑える必要もなく快適であった。





2015年4月19日日曜日

サヨナラ 最終回 蒼い光跡


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(五)蒼い光跡

私はBG5を売り払った。そして、馬鹿な真似はやめて、真面目な生活を送ろうと、新車のBP5のAT車を買った。もうターボのMT車には乗らない。
 そしてあのクリアなフォトフォルダーに未練がましく保管してあった、ミキから貰った写真は、フォルダーごと1枚も残らず燃やしてしまった。





 13年の歳月が経った。ミキはあれから早々に結婚し、子供にも恵まれた。私の方はというと、相変わらず破天荒な生き様で、結婚というものは2回している。子供は2人居る。BP5は荒れた人生に翻弄されながらも私の保有した車の中では最も永く、11年を走り、13万キロでその役目を終えた。
 ミキとはあれから一切、連絡を取っていない訳ではなかった。訳も無く電話や、メールがあったりで、年に数回やりとりがあった。年賀状も届いているし、送ってもいる。しかし、平成も20年を過ぎるとSNSというものが発達し、ミキがどんな写真を撮り、どんな生活をしているのかというのが分かるようになった。私にしてもしかり、SNSが出す画像や文体で、私の素性など知られているようなものだ。
 SNSで見る彼女の姿は年を追うごとに、私の愛したミキブルーとは違ったものに見えるようになってきた。ミキから見た私にしても同じなのであろう。

「もうミキブルーではない、自分のブルーがある筈だ」

PCの写真ライブラリを見ながら思った。

週末。三脚とカメラをVM4に積み、出歩くようになって何年経っただろうか。私も中小の小とは言え、社長と言われる身分となった。今更ミキブルーでもない。でも、なぜか、本人を前にしてしまうと、心臓に刺さるトゲのようなものは完全には抜け切っていないようだ。

伸二と私を乗せたVM4は羽田空港の滑走路をトンネルで潜り、羽田空港2ビルに寄せた。

「送迎レーンでいいです。」

と伸二は言ったが、私は立体駐車場にVM4を停め、伸二をゲートまで送った。
 そしてデッキに出てみた。まだ、うっすらと日はあるようで空の青さが残っている。しかし滑走路には灯かりが点ったようだ。伸二を乗せていると思われる787がゆっくりとタキシングをしてゆく。そして「静かな轟音」とともに、東京の空にツバメのように舞い上がった。

電話が鳴った。妻からだった。

「アナタ、今日は遅くなるの?明日詰まってるんだからね。
あぁ・・・・もしかして「ミ」・・・・・フフフ。やめとく。
分かってるから、早く帰ってきて。」

最後の「帰ってきて」のフレーズだけ、何となく、ドキっとするような女の口調になった妻の言葉に、

(・・・・・まったく。こいつも何もかも見透かしてるのかな。・・・・・)

そう、心でつぶやきながら、私はデッキを降り、帰路についた。






※この物語はフィクションです。実際の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。


サヨナラ 第4回 再会


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(四)再会

まさかこんなことが起ろうとは。
それは一通のメールであった。

「ねぇ、北海道、行かない?」

 ミキからであった。恋人同士としてではなく、単なる同行人として来てもらいたいそうなのである。私はなんとも複雑な気持ちであったが承諾する事にした。ミキはBG5は嫌だろうし、すでに郷里のT県に帰っていたミキとは現地、新千歳空港で待ち合わせる事にした。




 いつだったか8月。私は当時、まだあった747で新千歳に入った。爽やかな晴天、青空。ミキの乗る飛行機の到着まで、小一時間あった。私はデッキに立ってみた。ミキはT空港からの直行便で来るはずである。747や767といった大型機が飛び交う中、ミキを乗せていると思われる、ショートボディの737が着陸した。と同時に、隣の航空自衛隊千歳基地から2機のF15が轟音と共に離陸していった。
 到着ゲートへ降りると、ニコやかな表情でミキが降りてきた。

「私の飛行機、小さかったでしょ。」

「それから、戦闘機が2機、飛んでいったでしょ。あれ見てたんでしょ。」

 見透かしたかのように言うミキの言葉にこの子は私の何もかもまだ知っているのだろうかと、のっけから複雑な気持ちになった。その日は空港からレンタカー屋のマイクロバスに乗り、レンタカープールに行き、レンタカーを借りた。そして、長沼の温泉で一風呂浴びて、泊まる事もなく、北海道のグランドツーリングが始まった。
 どう走ったかはよく覚えていない。しかし、十勝からオホーツクへ抜け、富良野に至ったのは覚えている。天地天命に誓うが、私はこの旅で、ちょっとした事でよろけたミキの手をとった事はあるが、ミキには一切手を出していない。そんな不思議な関係がなおさら、私の胸を深くえぐった。

 そして持っていったカメラ、もはやデジタルカメラの時代。K社はすでになくなりKM社と名前を変えていた。私は未練がましくKM社製のデジタルカメラを使用していたが、このカメラがいい働きをしてくれた。ミキとの再会を待っていたかのように私のカメラのファインダーにミキブルーを再現してくれた。この時、ミキが何を撮ったかは私の知るところではない、カメラはS社のものに変わっていたが撮影データの内容をいちいち聞いてみるような事はない。つまりそういう関係なのであるが、それが、もう私とミキがもう恋人同士ではないのであるという事を示す事実であった。

 旅の最後に私は札幌で測量技士をしている伸二の会社の保養施設に泊めさせてもらう事にした。あらかじめ話をしておいたとは言え、突然現れた、不思議な関係の二人に、伸二は目をパチクリさせているようだった。夜、施設の大浴場で私と二人きりになった時、伸二は

「美希子さんとはまだ付き合っているんですか」

と聞いてきた。

「そんな事はないよ、ただの運転手さ」

と答えたが

「そうですかぁ」

と薄ら笑いを浮かべる伸二に

「そう見えるかなぁ」

とだけ答えた。

 次の日、伸二に礼を言い、新千歳までの僅かな道のりを走り、レンタカーを返し、空港へ向かった。往路とはちがい、帰路は羽田経由だというミキとは飛行機の席が隣同士だった。機中、色々な事が思い出された、そして、これが、何とも残酷な旅であったか。なぜ耐えたのか。自分でも分からない。答えの出ぬまま、747は羽田に着陸した。飛行機から降り、ボーディングブリッジを渡り、長い長い通路を二人無言で歩いた。せめて、この通路がもっと延々と続いてくれないかと思ったが、乗継ゲートへ向かうミキと、到着ゲートへ向かう私との分岐点が来てしまった。
 
ミキは表情を変えずに、また明日、会うときのように

「サヨナラ」

とだけ言った。
 そして、振り返って乗継ゲートの方へ向かうと、後ろ手に手を二、三回振った。私も手を上げかけたが、彼女にはもう見えない。

これが本当の「サヨナラ」なのだと。何となく分かった。

 デッキに出てみた。機数が多すぎて、どれがミキの乗る飛行機か分からない。ただ、出発時刻。それらしい、A社の青い尾翼の767が飛び立っていくのが見えた。

「サヨナラ、ミキ、楽しかった、有難う」




※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。


サヨナラ 第3回 別れ


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(三)別れ

 二年、地方都市のメゾネットでの二人の生活は、いつまでともいわず、形を変えながら続くものと思っていた。ミキとはBF5で色々な山、色々な海に言って写真に収めてきた。ミキもその間に、最初に田舎から出てきた娘のイメージはすっかり無くなり、ミキらしい、ミキなりの進化を遂げていた。
 とある日、とある事で、私はバイトに行く時に、ミキと途中まで一緒となり、バイト先の最寄り駅で別れた。そして、バイト先に入るなり、女性社員たちに質問攻めにされた。誰か見ていたようだ。

「ねぇ、ねぇ、あの娘、彼女?」

「うそー、カワイイ!」

「もったいなーい」

最後の「もったいない」という言葉に少々カチンと来たが、自分の彼女を良く言われて悪いとは思わなかった。

それくらい充実した日々を送っていただけに、それは、ショッキングな出来事として、突然やってきた。



「別れたい」



切り出した、ミキの言葉に、私は何を答えたのか、よく覚えていない、ただ、突然の別れに現実をイマイチよく理解していないようだった。

「8月にみんなで北海道へ行くでしょ。それで終わりにしたい」

更に残酷な言葉であった。別れの日を宣言されたのであった。いっそ、そこでひっぱたかれて、追い出された方が楽だったかもしれないと、今になってみれば思うが、その頃は一分一秒でも、ミキと一緒に居たいがために、その条件を飲んだ

「このまま二人、駄目になってしまうなら、別れた方がいいと思うの」

それが彼女の言葉だった。



かくしてBF5は北海道へ渡る事になった。北海道へ渡る事自体は初めてではないのであるが、車ごと渡るのは初めてであった。小樽の運河、十勝の大平原、野付半島、オホーツク、ハイライトは宗谷岬から礼文、利尻の見える丘。稚内市内のA航空のホテルを見上げ

「こんなホテルにいつかは泊まりたい」

などと思いながら、その晩は夜通し走る事にした。途中、仲間との離合集散を繰り返しながら、1週間強の旅は終わり、フェリーは新潟港に着き、名残を惜しむように、BF5は東京方面へと走った。
 ミキのメゾネットに着き、彼女の荷物を降ろし、最後に

「有難う。いい女だったでしょ?」

こみ上げる涙を我慢するのが精一杯で、

「うん・・・」

とだけ答えるだけであった。

この言葉は、生涯、身に沁みる事となった。
そう言うと、ミキはメゾネットに入り、扉を閉めた。
私は追うような事はしなかった。


それから、彼女という娘は何人かできた。しかしながら、鮮烈なミキブルーに侵されていた私は、なぜか満足できなかった。冷静に考えれば、妻とするならば、ミキ以上の娘も居た。
 車もミキとの想い出のありすぎるBF5は売り払い、代わりに改造のタネ車としてはちょうど良いBG5の中古車を手に入れた。
 ATだったBF5に対し、BG5はMT車を探して選んだ。すでに社会に出て、ある程度の資金があってか、BG5の改造に没頭した。カメラは封印された。ホイール、エアロ、車高調、ワンオフマフラー、ワンオフ前置きインタークーラー、金プロ制御。タービンこそノーマルを残したが金プロ制御で魔物のような車となった。
 ノーマルタービンながら直線だけは速かった。どこまで踏めるか、度胸だめし、命がけだった。私は荒れていた、仲間とつるみながら、深夜の高速をブッ飛ばした。やはり「湾岸ミッドナイト」、ベイエリアは好きだった。Bラインの東京港トンネルを一番右の信号の下から突っ込み、羽田空港ターミナルをぶち抜き、ベイブリッジへ。メーターの針はとんんでもない場所を指している。
 笑える事にこのBG5は北海道へ2度渡っている。オロロンラインを羽幌へ。命知らずの爆走であった。

しかし、何も埋まらない。どんな娘と付き合っても、BG5をどこへ走らせても、そこから生まれるものは皆無であった。




※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。

サヨナラ 第2回 ミキブルー


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(二) ミキブルー

 20年前、私のBF5はミキを助手席に乗せ、東京港トンネルを走っていた。当時大学2年だったか。ミキはT県のちょっとした中小とはいえ中企業の令嬢だった。ミキは飛行機でプチ帰省をするのだという。BF5は老兵とはいえ、アクセルを踏めばブッチ切れるほどの快感で、このトンネルを抜けられるのであるが、ミキが嫌がるので、仕方なく、中央車線をやや速めに流していた。
 
 ミキとの出会いは突然であった。私は大学のサークルの部室で暇を持て余していた。現代写真部とは名ばかりで、ムサ苦しい男どもが、鉄道写真を撮るために集まったようなものだった。その内訳は鉄道写真8割。現代写真2割といった具合か。
 私は8700iにマウントしていたシグマの標準ズームの具合が悪く。買ったかばかりのM社純正の28-105レンズを同じ8700iを持っている浩史と調整していた。マウントがC社である伸二は、写真の整理をしているようだった。
 そこへ美希子は突如として現れた。

「あのう、入部したいんですけど」

むさ苦しい男どもは、突然の訪問者に、慌てて腰を上げ、椅子の埃を掃い

「どうぞ、どうぞ」

と怪しいもてなしで、浩史が部の活動内容について話を始めた。

 それがミキとの出会いであった。





 数ヵ月後。私は、BF5でミキのアパートへ乗りつけ、入っていった。もう、付き合い出して何ヶ月経っただろうか、悪い言い方をすれば特段、可愛い訳でもなく、田舎から出てきた少女を、私は騙すかのように半同棲生活へと誘ってしまった。
 身の丈に合わずに面食いな私は、ミキがあまり可愛くないという点においてだけ、どこか不満足な部分もあったが、これが生涯の胸の痛みの始まりとも知らず、昭和のフォークソングの世界に唄われているような堕落した学生生活を送っていた。
 昭和のフォークソングと違っていた点は、ミキの住居が、四畳半のしみったれた下宿ではなく、新築のメゾネットであった点だ。そのあたり、ミキは、その風貌とはちょっと違った、特別な娘だったのかもしれない。そこへ寄生するように、私は不釣合いな半同棲生活を送った。BF5は1日おきに車庫とミキの家に泊した。
 
 その日の翌日。私は、伸二と浩史に誘われて、ヨコカルへ出かける事にしていた。ヨコカルとは当時有名な鉄道撮影地で、今は廃線になっていて無い。前日から伸二と浩史に言われていた私は軽い気持ちでミキにも聞いた

「ミキも行く?」

「うん!、行く、行く!」

屈託のない笑顔だった。

 翌日、私のBF5は車庫に帰ることなく、ミキの家から直行で、助手席にミキ、後部に伸二と浩史を乗せ、K道を走っていた。

「ちょっと心臓が痛い」

いかん、いかん、ちょっと踏めばすぐにスピードが乗ってしまう。左車線に移り速度を落とす。

「俺たちだけを乗せている時は、思いっきりブッちぎっるくせに」

そう、言いたげに、ニヤニヤと目線を合わせる伸二と浩史の姿がミラー越しに見えた。若干、スローペースになりながらも、ヨコカルの有名撮影地、M山変電所跡には予定より早着した。

「わぁー綺麗」

三脚をひっぱり出し、一眼レフの調整をしている我々を尻目に、ミキはナニやら、コンパクトカメラで狙いを定めているようだった。
 どちらかというと撮影が苦手な私に伸二と浩史が、やれ、構図はこうだとか、置きピンはここだと教えてくれる。
 当時はまだ、フィルムカメラの時代。湯水のようにデジタルシャッターが切れる今と違って、フィルム代はかかるし、現像代もかかる。写真は一発勝負であった。
 やがてブロワーの音も高々に189系を後部に従えたEF63の重連が下ってくる。

「ここだ!」

「バッ」

「バババ!」

一発置きピンの約束を破り、誰かが、ドライブ連写をしたようだ。

「だれだ、ドライブを切ったのは」

笑いながら浩史が言う。それくらい貧乏学生には。フィルムが貴重だったのである。
 そんな馬鹿話をしながら、私はミキの姿を探した。ここへ来て、ミキは何をしているのであろう。ミキは朽ち果てた変電所跡を回りながら、コンパクトカメラで何やら撮っているようであった。まぁ、女の子だから。その場はそう思った。





数日後。私たちは暗室で、

「チャポン、チャポン」

と不気味な音をたてながら、写真の現像とプリントを行っていた。印画紙にEF63の姿が白黒に浮かび上がってきた。当時、写真はコストパフォーマンスの安いネガフィルムで撮るか、本格的にポジフィルムで撮るかであった。
しかし、私たちは意表をついて、自分たちで現像できる白黒フィルムで撮っていた。

「まぁまぁかな」

満足げに写真を持ちながら、私たちは暗室から部室に戻った。部室ではミキが先日、コンパクトカメラで撮った写真がDPEから上がったらしく、それをノートに貼りながら、ペンでデコレートしていた。

「全く、女の子らしいな」

そう思いながら、見ていると、ミキから

「見て、見て、どう?」

とノートを渡され、私は言葉を失ってしまった。
 まぁ、今で言えば、若い女性、どちらかというと若妻向けの本に出てきそうな構図で、我々の姿や朽ち果てた変電所などが、ヘタクソショットを上手く見せる手法で撮られており、EF63の姿も見えた。

「これは、一体・・・。」

それ以来、私はミキの撮る写真の虜になってしまった。
 ミキとは連れ立ってBF5でよく出かけた。しかし私のカメラにはフィルムさえ、入っていない事も多く、それほどまでにミキの写真に侵されてしまっていた。

 当時ミキの使っていたカメラはK社のコンパクトカメラにK社のフィルム。普通、一般的なF者のフィルムが赤の発色を得意とするのに対し、K社は青が得意で、ミキの青い空と、水々しい風景はK社製品の組み合わせによるところが多かった。そして終ぞ、ミキは一眼レフカメラを持つことなく、K社製コンパクトカメラをフィルムカメラの終焉まで使い続けた。
 ミキは撮った写真を文化祭や展覧会の展示物とするには気がすすまないようだった。それではこの部活に居る意味が無いではないかと言う先輩も居たが、私はミキが言わんとしている事も分かっていた。
 私はミキを愛したのと同時にミキの写真にもゾッコンはまり込んでしまったらしい。ミキからもらった写真は、特別に無機質なクリアなフォトフォルダーに収められていた。私が「ミキブルー」と呼んだその写真群には飾りの無い、クリアなフォトフォルダーが良く似合っていた。




※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。




サヨナラ 第1回 ベイエリア


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サヨナラ

ムーンライト松崎



(一) ベイエリア



 私はベイエリアにいた。昼下がりから、年に一度の同窓会とは名ばかりの宴が開かれていた。もう40を過ぎるというのに20年も前の大学時代の仲間が集まり、近況を語り合っている。
 40を過ぎるとなると、ひととおり、結婚を経験し、子供をもうけ、特段、話す事といったら若干の近況と、若干の昔話。自慢じみた話にうっとおしさを感じながらも、自分も自慢じみた話をしてみたりするものだ

 ただ時代背景からか、一度も結婚したことのない者や、あえて子をもうけない者、私みたいに「X」がついている者も居る。
 長いテーブル席の私と対角の位置にミキは座っていた。本当の名前は美希子。「子」がつく名前が好きだといいながら、自分の事はミキと呼んでほしいらしい。
 楽しそうに子供とじゃれあうミキに少しのうっとおしさを感じながらも、それを打ち消すように、私は隣の伸二や浩史とじゃれあっていた。全く、私は結婚というものを2回もしておきながら、子供も居るといのに、ミキの一挙一投足にため息が出そうになるなんて、本当に馬鹿げている。
 宴も終わり、皆、帰途につくことになった。こんな間昼間から宴が行われているのも、同窓会と名のつくものが、多方面に散り散りになった仲間を集めるからであった。
私は伸二と車で来ていた。車で来ていたからには、酒を飲める訳もなく、そんな私を気遣ってか、伸二も酒を飲まずに居た。




 店の外に出ると心地よい風が吹いている。都会であっても海辺。こういうのをベイエリアというのか。
 バスがないから、K線の駅まで歩くという、ミキと浩史たちを見送り、私は岸壁に係留されていた古船が気になったので、スマホをああでもない、こうでもないと、いじりながら苦戦しつつ、被写体として収めていた。

「センパーイ、行きませんかぁー?」

おどけた表情で伸二が私のVM4の横で呼ぶ。

「ははは」

「やれやれ」

が混ざったような表情で、私はVM4まで戻り、ハッチを開けた、そこには私と伸二の撮影機材が所狭しと置かれていた。
 そう、ここへ来る前、早朝に約50km離れた東北本線の撮影地で列車撮影をしてから、ここへ来ていたのであった。いい歳をこいて、仲間からは呆れられているだろうに。
 荷物の整理をし、運転席に座ると、私はVM4のエンジンスタートボタンを押し、そこを離れた。開け放たれた窓から、初秋の爽やかな風が入ってくる。
 北海道から来ている伸二は、これから、この足で札幌へ帰る。私は羽田まで送る約束であった。

「そこを右に曲がってください」

 伸二が言う。さすがだ。ナビどうりの走行に慣れてしまった私と違って、測量技士をしている伸二は一度通った道は忘れないらしい。
 ベイエリアの40ft海上コンテナトレーラーでも悠々と曲がれるような巨大な交差点を右折すると、片側だけで4車線ある道に出る。中央分離帯を隔て向こうの道の歩道を、ミキたちが歩いているのに追いついた。私はクラクションを2、3回鳴らし、窓から手を出し、大きく振った。アホな浩史が、おどけたしぐさで大きく手を振っているのがチラリと見えた。ミキはすまして、子供の手を引いているようだ。
 エアコンを入れ、窓を閉めた。静かになった空間に

「ふぅぅ」

と思わず。私の溜め息が響いてしまったが、伸二は気づかないふりをしているのだろうか。
 VM4はT道に入り、首都高Bラインへと足をすすめる。レインボーブリッジが右へ去り、東京港トンネルの3連信号が見える所で

「ふぅぅ」

とまた、深く溜め息をついてしまった。さすがに伸二が

「どうかしたのですか。」

と訊ねる。


「いいや」

と短く答えただけで、VM4は、片側3車線の東京港トンネルのいちばん左の車線を法定速度で走っていた。




※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。



連載が始まります。


久々にムーンライト松崎の名前でリリースします。
だれもが、持っていそうな青春のひとコマを綴ります。
原文はできているので、不定期でアップします。



2015年4月17日金曜日

タッパー1号

移動用のダイポールを作ろうと思ったのであるが、お手軽に
パッチンコアに1.5D同軸を巻いて、製作。データはこちら
の記事を参考に製作。手持ちの適当な秋月で売っていたのコアを使ってしまったが、データどうり巻いたらちゃんとSWRが落ちていたのでOKかな。計測は、ワニ口で、ダミーロードにつないで、アナライザー計った。ダミーロード計測だと、21MHz以上はリードの長さが影響してしまうようで、50Ω抵抗で計測した方がいいのかもしれない。いちおうデータ上では50MHzまで使えるようであるが、実測では21MHzまでOK。ハイバンドと50MHzで高いのは。多分、リードの影響であろう。


外観はこんな感じで。ちょい、ボルトが長すぎたのと側面から出せばよかったかな。紐通し用の穴も空けた。

部品で単価が一番高かったのはパネル型のMコネクター、、、。ローカル局曰く、秋月の安いやつでいいようなので、ストックしておけば良かった。とりあえず、すぐに欲しかったので、仕方なくwwちゃんとしたwwコネクタを使用。

ローカル局いわく、昼飯代くらいでできるという事だったが、、、。数をつくらないと、1個当たり単価は下がらないなぁ、、。でも、まぁ、コネクタさえ安ければ、だいたい1000円以下になると思われる。


新潟の115系の検査が大宮に

最近、取引先のO君が、ビジネス会話以外に、テツ情報を流してくれる。どうも信頼できる筋らしく、やたらに詳しい。
で、北陸新幹線開業にともなって、直江津-長野間がしなの鉄道に移管されたため、長野で検査していた115系が大宮で検査を行う事になったようである。しかも、自走ではなく配給で。しかも、EF64ではなくEF81で来るという。新津工臨もEF65だったので、どうも軽量の車両なら、EF81、65が充てられるようだ。
しかし、長野総合車両センターは在来線地図上では、長い尻尾の末端に、ポツンと浮いた感じになった。


んなわけで

配9738レ 吹上-北鴻巣
α77+80-200F2.8ハイスピードアポテレ

牽かれているのは4両組の新潟L11編成。

おまけ。新津工臨もあったようだ、切りそこねて画面カツカツ。失敗。




2015年4月13日月曜日

移動用パドル


捜し求めていた。パドルが手に入った。

CQ出版社扱いであるがGHD製のジェミニ。

収納状態はこんな感じでこんなサイズ。ここから、ネジを緩めてスライドさせると、パドルが飛び出してくる。


FT-817と比べるとこんな感じである。難点は、マグネットになっていないので、自分でつけるか、片手で抑えながら打たないといけない。

マグネットシートかマジックテープを貼ると良いと説明書に書いてあったので、マジックテープを貼ったのであるが、どうも、マジックテープだとフラフラしてしまいイマイチ。

至近距離でローカル局が移動運用していたので、話のネタに500mwで呼んでみたが、ちゃんと届いているのであるが、焦って、呼出時の、自分のコールサインを打ち損ねるという大失態。、、、う~~ん。タッチも微妙にフニャッツとした感じで独特である。



とにかく荷物を最小に収めたいFT-817による移動運用には最適である。

まだアンテナシステムは試行錯誤中であるが、6月に予定している5エリアへの旅行までには、何とかしたいものである。あ、、、その前に腕のほうも、、、。それが一番の問題なのであるが。なかなかコールバックが一発で取れずに苦戦中。まぁ、ホームでは免許上、なまじパワーは出てしまうので、ハイパワーかけて、取れないというのは恥ずかしいが、この手のQRPはCQ側が一番弱いわけで、、、

2015年4月10日金曜日

もうすぐ竣工

昨年の11月より続いていた行田線の建替工事であるが。おおむね完了した模様である。

新47番より老番側を望む。新47番は立派な耐張鉄塔。若干の角度がついている。この角度が問題で、水路をまたいでこちら側に引っ越してきた模様である。

新74番の基礎部から新74番、新75番を望むナンバープレートも装着されている。。背高であるが、用地節約のため、新76番は基礎部が狭くなっている。保有地に建替えた老番側は若干開脚が広い。
鉄塔の工事は終了した模様で撤収にかかっている。盗難防止で、鉄板は全て溶接してあるので、敷設は早かったが、撤収は、溶接部をディスクグラインダーで切断しながら行っているようで。結構、手間を食っているようである。


あいにくの雨天の撮影。新74番より若番側。まだスーパーハウスなどがあるが、撤去が進む。この用地は小生の土地なのであるが、これが終わらないと、耕作が進まない。今月いっぱいは貸してあるので、草は生えていないだろうが、起耕結構忙しい。