2015年7月25日土曜日

湯沢町で超絶空振り


新潟県南魚沼郡湯沢町(#0815D)に430MHzの移動運用に行ってきた。

当初の予定では、魚沼スカイライン上の南魚沼市/十日町市のポイントか、スカイライン入口の十日町市ポイントも気になっていたので、どちらかで運用しようかと、思っていたのであるが、湯沢インターを出た所で、カッサダムが気になり、左ウィンカーを出してしまった。


これが、そもそもの間違いの始まりなのである。

さて、カッサダムとは。



カッサダムをバックにカシャ!
場所はかぐら田代スキー場であるが、
何年前に撮った写真なのだろうか。
ご機嫌のS氏である。


小生の中では、この写真のイメージが強いのであるが、カッサダムは揚水式の奥清津発電所と奥清津第二発電所の上池で、上池というだけに標高は高いはずである。、、、と。以前、どうにか車でアクセスできる、湯沢町のポイントがないかと探していたと時にカッサダム堤体付近からパスがある事をRadioMobile解析で確認していたのを思い出したのもあって、カッサダム方向へ舵を切った。

まず、第一の番狂わせが来たのであるが、国道17号の、かぐらみつまたスキー場の手前から、苗場山登山口方向への林道へ入りしばらく、行くとカッサダムへと向かう道に分岐するのだが。なんと、カッサダムへ降りる分岐の所で林道ゲートがあり通行止めとなっていた。入り口の道を間違えたのか、辿りつけない。

「おかしぃなぁ。」

RadioMobile解析をした時は、Googleマップで、カッサダムの紅葉の写真があったので一般人でもアクセスできるはずだと思っていたのだが。多分、徒歩でしかアクセスできないのかもしれない。解析済ポイントを失い、これはマズったと思い、日暮れも迫り、焦り出す。あとは、どうにかこうにか山に当てて関東へ波を落とすポイントはないかウロウロする。これはもうヤマカンしかない。この付近は冬場はかぐらみつまた及び、田代スキー場のようで、リフトがあるポイントは夏は道路が通じている場合が多いので、あの写真のポイントがみつかるかもしれない。

結局、苗場山の登山口と思われる付近に、開けていて、アンテナを上げられる駐車場を発見し。そこで、なんとかアンテナを上げるも、番狂わせは、アンテナが上がる頃に、第二の番狂わせで、車中泊の登山客の車がドンドン入ってきた。

「ま、、、マズイ。これは発動発電機はNGだ、、。」

しかし、めげない。発発が使えない事は毎度予測に入れているので、予備電源のバッテリー直列の24VからのDC-DCコンバーターで13.8Vを取り出すシステムで運用する事にする。このシステムは電圧が低下しても安定した13.8Vが得られるため、FMの場合、約3時間の50W運用が可能である。

そして、意外と手際よく、アンテナを上げて、、、。VFOを回した瞬間。

「あぁ、、、、、、、ダメだ。」

ガサッとも言わない。

いくらオーバーエリアポジションとは言え、430MHzメインがガサガサ、VFOを回すと交信が聞こえるようでなければ、ほぼ、CQでの応答は絶望に近い。

私はあまり、予告QRVは好きではない(そもそもここへは偶然来ているのだから)ので、打率が低いのはしょうがないのであるが。これでは、流石に1エリアの空き周波数も取れないと思ったら、圏外を示していた、携帯に奇跡的に4Gの表示がついた。そしてLINEが通じたようで、ローカル局からの貯まっていたメッセージを吐き出してきた。

ここは、携帯のS(笑)が落ちないうちになんとかやりとりを成立させなければ、、、。

圏外とS1の狭間の数回のやりとりで、何とか、1エリアの空き周波数の連絡が来た所で、携帯の波はダウンしてしまったが、効果的な通信ができた。どうも、当該周波数で、0ビームで50W焚いてラグチューをしているから、ビームを合わせて、ブレイクして欲しいとの事。

まずは、最初は、カッサダムを見下ろす方向、夜で分からないが、多分写真の方向の谷川岳ビームにしてみるが、どうも具合が悪い、存在は分かるが復調して来ない。どうも経験的に谷川岳は形が悪くあまり使える気がしない。(魚沼スカイラインからは、東京方面へ飛ぶのであるが)

そして、次は、あまりにも近いので、振り角が90度くらいあるが、苗場山方向で探ってみる。ポイント的にはかぐらみつまたと田代の接続点付近なので、苗場は近すぎるだろうと思ったが、探ってみると、針の穴を突くようなビームで、なんと59+で鴻巣ローカルが入ってきた。(撤収時に気付いたのであるが、すげぇ仰角がついており、結果的に近距離の山向けの角度で、功を奏した格好だった)。

ブレイクを入れて何とかローカルとは交信成立。
八木のJI4OMC/1局とは59-47と、多分位相の問題かと思うが、、。こちらには終始ローカル並の59+強い。
ラグチュー相手の7K4IUM局は、存在は分かるも復調せず。

あぁ、、、GPは無理か。だいたい指標として20WのGP局とモービル局との交信ができればFBなパスがある。


まぁ、そこで、周波数を譲ってもらい。CQを出すも、何と、1エリア坊主。

0エリアは意外と飛んだようで、長岡市のハンディ局と新潟市。これは楽に交信できた。

う~~~~~~~~~~~~~ん。

移動して超絶空振りである。

私は、「壮絶」空振りという表現をよくするが、430MHzの21エレを組み上げて空振りするのは、HFのワイヤーで空振りをする比ではない。なので「超絶」。

そして、あろうことか、0エリアの交信局から。


「あ~~、そこ、欲しかった、ふるさと富士ください、、」

・・・・。

コレ、HFなら呼ばれたパターン、、、。よりによって、、、。そうなんだよな。水上と湯沢は意外とQARVが少なく。呼ばれるんだよな、、、。

最近HFのサービス運用してないし、ポイントノートは持ってきていなかったので、交信局のリクエストを突合して宣言ポイントは、ふるさと富士。中部18番という事に。まさか430で残存移動ポイントを確認する事になるとは、、。

まぁ、、、結局、ロケハンですから、、、、。新潟0~1は間の山が高く、厳しいナァ、、、。新潟0は430のQRVが少ないので、もっと開発したいのであるが。



おかしいと思って前回のRadioMobileのデータをひっぱり出してみたら。やっぱりカッサダムの堤体上は飛ぶ。薄水色だけでなく緑の筋も出ているので、これなら問題なく東京まで飛ぶだろう。




今回の移動地のデータ。カッサダム上で見通しもいいはずなのにご覧の通り。埼玉にはかろうじて、青いゾーンがあるのみで、これでは通信は厳しい。何故だろう。谷間のマルチパス合成とか、色々なファクターがあって、下のカッサダムの方が強いという解析。本当にカッサダムで飛ぶかどうかは別として今回の運用地が厳しい事は解析でも実証された。



※調査の結果。カッサダムは関係者意外は徒歩でしかたどり着けないようです。ロープウェイで上って1時間ほどのよう。


2015年7月20日月曜日

関東YHCさん応援運用


関東YHC(関東ヤングハムクラブ)さんの移動運用に、資材提供と。オペレートで行ってきた。内容は動画にあるとおり。

皆様お疲れ様でした。


しかし、移動運用の空振りの帝王のはずなのに、なぜ、呼ばれたのだろう、、、。毎度、HFで呼ばれる気はしないのであるが。

赤城山で紛失した、踏みたてベースが戻ってくるとは。結局買ってしまったので2個になったのだが。ベースはタイヤでない、支線を使う、ベースとしても使えるので、マルチバンドで出る場合のベース増えたので結果オーライなのであるが。




2015年7月19日日曜日

呼子線(1) 呼子線建設の経緯

リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年8月に取材されたものです。


取材1997年8月
ムーンライト松崎

幻の鉄道建設公団AB線
呼子線


(1)呼子線建設の経緯

九州の福岡近郊、唐津から、朝市で有名な呼子までの約17Km、七つ釜に代表されるような風光明媚な海岸を行く路線が今回のターゲットの呼子線である。

他の未成線と違って呼子線建設の経緯は少々複雑である。呼子線のもともとの計画を知るには昔の筑肥線と唐津線の線路関係を知る必要がある。今の時刻表の路線図を開いてみてほしい。福岡市営地下鉄と相互乗り入れを行っている姪浜-唐津間と唐津線の山本から分かれて伊万里まで向かう路線の2つに分かれているのに気づくだろう。この2つの路線は名前こそ同じ筑肥線を名乗るものの、幹線とローカル線、電化と非電化と、全く違ったいでたちの路線である。

ところが古い時刻表を開くと筑肥線は国鉄線として博多から直接延びており、現在の唐津駅は通らずに東唐津でスイッチバック、山本から本牟田部までを唐津線と併走し、伊万里まで向かう路線図になっているはずである。一方、唐津を通るのは佐賀から延びてきた唐津線であり、現在と同じ西唐津の駅で終点となっている。




呼子線の計画はそんな路線の配置を元に筑肥線の虹の松原から分岐して筑肥線と唐津線をショートカットして唐津-西唐津を通りその先は呼子を経由して松浦半島を半周して伊万里まで向かう計画だった。この呼子線の初期の計画は1962年(昭37)に計画線になり、1964年に鉄道建設公団の建設線になっている。

ところが、このころから福岡近郊のベッドタウン化と共に筑肥線の輸送力がパンク状態となり、輸送力の増強が急務となっていた。そんな中、福岡市営地下鉄の建設計画と協調した改良計画が急浮上した。その計画により筑肥線の博多-姪浜間は福岡市営地下鉄と相互乗り入れする事にして既設の路線は廃止して、呼子線として計画されていた虹ノ松原-西唐津間は無償譲渡のAB線(地方交通線・地方幹線)から有償譲渡のCD線(主要幹線・大都市交通線)に変更し、唐津線の唐津市内の高架化工事と連携する形で建設する事になった。

また地下鉄直通のため、姪浜-西唐津間の電化方式は交流電化の九州内にあって異色の直流1500V電化となった。これにより筑肥線は博多姪浜間を失ったものの、地下鉄との相互乗り入れという形で姪浜まで複線電化され、姪浜から先は呼子線区間の開通により、電化による西唐津直通が図られた。


 

この改良工事は1975(昭50)に着工され、鉄道建設公団のCD線という事で、予算の集中投入を受けて国鉄再建法成立にからんだ1980年(昭55)の凍結にかかることなく、1983年(昭58)に完成している。またこのルートの開業により筑肥線の東唐津駅は新線の高架上に移転し虹ノ松原-(旧)東唐津-山本間は筑肥線の唐津乗り入れにより唐津線と重複する事から廃止された。また1992年(平4)には福岡市営地下鉄が博多空港まで乗り入れ、西唐津-福岡空港直通という新たな付加価値が加えられた。

虹ノ松原-西唐津間はCD線という事で予算の集中投下を受けて55年凍結の憂き目にもあわずに建設された訳だが、西唐津より先は1968年(昭43)の着工以来、AB線のままで建設され、西唐津-呼子間の大半が完成した時点で、昭和55年を向かえ12年の長きに渡って建設が続けられ着工区間の9割以上の工事が完成していたのにもかかわらず、ほかのAB線群とともに建設が凍結されてしまった。ちなみに呼子より先は呼子駅の先のごくわずかな橋脚を作っただけで、全く手付かずであった。以上が呼子線建設の概要である。

その後は他の路線のごとく第3セクター化が模索された時期もあったようだが、結局盛り上がらないまま終わってしまったようである。その後は工作物の撤去を中心に話が展開されているようで、サイクリングロードにする計画があったが断念したとかすでに壊してしまったとの情報が流れていた。また、「旅」誌の1997年7月号の付録に「全国「未成線」大全科」に呼子線のものと思われる壊された高架橋が表紙を飾り

「やはり壊されたか!」

と衝撃を受けた。まあ、実際の現状はどのようなものか見るべく、残暑も厳しい九州へ向かったのであった。



呼子線(2) 呼子線の路盤の現状(1日目)

リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年8月に取材されたものです。

取材1997年8月
ムーンライト松崎

幻の鉄道建設公団AB線
呼子線





呼子線の路盤の現状(1日目)

8月20日、この日は唐津市役所で情報が手に入らないものかと思い、博多から筑肥線経由で唐津へと向かった。福岡市営地下鉄から唐津へ直通する列車は意外と少なく、ほとんどは姪浜か筑前前原での乗り換えを要する。待てば直通列車もあったのだが、合間を使って姪浜と筑前前原の様子を見てみる事にした。

まずは姪浜。ホームに降りて思ったのは、何と人の多いことか。始発電車が発車するホームにはすでに長い列が出来ている。電車の行き先は福岡空港、西鉄宮地岳線と直通の貝塚方面であるが、ちょうど9時前の出勤タイムとあって、どの電車も東京近郊の私鉄の電車並みの混雑である。

筑前前原にも移動してみたがこちらも同じような状況、6両編成の始発電車はすでに席が埋まっている。ところがまもなく唐津方からやってきた折り返し西唐津行きの電車は3両編成。乗り換えの客をドッと吐き出した後は乗る人もまばらで、赤とシルバーの塗色にリニューアルされた派手な103系の車内はガラガラだった。

筑前前原を出ると電車は海岸に近い所を走る。夏の玄界灘は真っ青で非常に美しく、夏の日差しを受けてキラキラと輝いている。途中で福岡空港行きの1日1本の快速と交換したのだが「何と乗っていることか」博多に着くのは10時過ぎだから通勤のためだけではないだろう、福岡空港へ向かう客だろうか。すし詰めの状態だった。

 

行楽客風の家族が降りると虹ノ松原。ここを出ると、呼子線として新規に建設さた区間に入り高架へと駆け上がって行く。右へ昔の東唐津へ向かっていると思われる廃線跡を見ながら高架の東唐津へ着く。松浦川を渡り、佐和田を過ぎ、高架へ上ってきた唐津線と合流して唐津へ着く。唐津線だけの駅だったころの唐津駅を私は知らないが、高架化されたこぎれいな駅舎で駅前には大きなロータリーが整備されていた。

さて唐津市役所で呼子線の状況を聞いてみることにする。実際に案内されたのは都市開発課であり、詳しい話を聞くことができた。

まず高架の解体の件であるが。解体するというほ本当のようで、現在、工事を発注している段階であるとの事(しかし、では「旅」誌の表紙は何だったのだろう、国か県の道路予算で壊したのだろうか。)

サイクリングロードとして使う話は実際にあったようで、実現する方向へ行きかけたそうだが、長いトンネルは照明をつけても防犯上好ましくないと問題になり、断念してしまったようだ。話を聞かせてくれた職員の話では「サクラでも植えたらきれいでしょうね」などと話していたが、実際の活用は公共性の強い「皆が使える施設にしたいと考えているとの事だ。しかし、草刈り等の費用の負担も馬鹿にならず、また道路や河川を目的もなく占用しつづける訳には行かないらしく、壊すところは思いきって壊してしまう事にして工事を発注したとの事だ。

また最近は国道のバイパスとして使う計画が急浮上してきたとの事だ。どう考えても単線鉄道企画のトンネルでは車は走れないと思いそこを質すと、実際に使うのは用地のみで、高架等の工作物は取り壊し、トンネルは掘り直すらしい。今は話が出てきた段階で関係機関と調整をしているとの事。私が来る前は国鉄清算事業団と話し合っていたようだし、話している最中は建設省の本庁から電話がかかって来ており、どうやら話は本格的に進んでいるようだ。

しかしまあ、なんとご苦労な話ではないだろうか、掘り直すカネがあるなら開業できたはずである。財源が全く違うとはいえ、もったいない話である。ここにも「まず道路ありき」の日本の政策が見え隠れする。鎮西町や呼子町など、同じ沿線の自治体はどうするのかと聞くと、無償なら引き取る事にしたようで、路盤の一部を農道として使うようである。いずれにせよ工作物は撤去するようだ。

さて唐津市役所を後にして、西唐津まで向かってみる事にする。今回は2日に分けて調査する事にしており、今日はクルマを手配していない。西唐津までは「電車」である。唐津駅に戻り、周遊券を見せて改札に入り、ホームへ上がるとちょうど西唐津行き電車が到着したところだった。筑肥線の103系もJR九州独特の派手なカラーリングの電車が多くなったなっているが、珍しくスカイブルーにクリーム色の帯を巻いた電車が止まっていた。

前3両だけが西唐津へ向かうようで、発車前に一度ガクンと前進した後、再びドアが開いた。まもなく再びドアが閉まり、列車は動き出した。唐津を出ると昔の唐津線の旧線直上を走っているのか、小刻みにカーブを切りながら進む。しばらく行くと突如、途中で切れた高架橋が左に分岐しているのが目に入った。これは一体どうした事か。その高架が視界から途切れるとまもなく高架を降りてしまい地平の西唐津駅に到着してしまった。西唐津は高架かと思ったが駅の端には車庫(唐津運輸区)があり、これがあるためにとりあえず地平ななったのだろう。

折り返しに乗る佐賀行きの唐津線まで時間があるので、先ほど見た奇妙な高架橋まで歩いてみることにした。しかし、暑い。うだるような暑さだ。まったくとんだ日に来てしまったものだ。しかしブツブツ言っていても何も見つからない、線路沿いの道を黙々と唐津側へ歩く事にした。


奥に見えるのが、呼子線の取り付け準備工事部分。


一旦住宅に遮られながも7,8分程で例の分岐部分に到着した。西唐津へ向けて若干右にカーブを切る唐津線の高架橋から分岐する形の高架橋を接続できる台座が見える。途切れた高架橋の先には更地の用地が続いており、多分その先にの高架橋が建設される予定だったものと思われる。これは呼子線のものと見て間違いないだろう。もし呼子線が開業していたら西唐津も高架駅になったはずで、この高架橋は西唐津駅は高架に移る事を前提に、暫定的に地平の西唐津駅に降りる連絡橋をつけたものと推測される。今の唐津線の線路は呼子線の開業後は唐津運輸区への出入庫線になる予定だったのだろう。しかし、「幻の鉄路を追う」には呼子線は現在の地平の西唐津を出て国道204号を踏切で横切って唐津トンネルに入るとある。とすれば、高架橋の断面は何なのだろうか。おそらく、将来的には西唐津も高架化するための準備工事なのかもしれない。また、よく見ると今使っている唐津線の向こうにも道をまたぐ地平のPC橋が見える。線路標識の残骸などもあり、どうやら更に古い高架化前の地平の唐津線らしい。なんともここでは新旧の線路の移り変わりと挫折の跡を一度に見る事ができるのだ。

呼子線の取り付け部を見たところで、この日は時間切れとなってしまった。




呼子線(3) 呼子線の路盤の現状(2日目)

リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年8月に取材されたものです。

取材1997年8月
ムーンライト松崎

幻の鉄道建設公団AB線
呼子線


呼子線の路盤の現状(2日目~その2~)



再び呼子を訪れたのは8月28日、今日はレンタカーを手配してある。ところが前日はサークルの旅行の集合日で長崎での泊りとなっており、解散は朝の9:30となった。早く出てしまう事も可能だったが少々ユックリし過ぎてしまったようだ。長崎は10:00発のかもめ4号で出て佐賀には11:21分着、ここでトレン太君(レンタカー)を借りて唐津へと向かう。

しかし佐賀の市内は予想以上に混んでいる。これでは唐津に着くのは14時頃になってしまいそうだ。よりによって今日の「さくら」で東京へ帰らねばならず現地を出るのは17時頃がリミットになってしまいそうだ。これでは時間がない。そんな事だったら前回の調査日にクルマを借りてしまえば良かったのかもしれない。そうすれば朝の9時ごろから使えたし、営業時間いっぱいの20時に返したとしても、博多発の「ドリームにちりん」「ドリームつばめ」にも余裕で間に合ったはずだ。まあブツブツ言っていても時間が戻る訳ではないので黙々と運転することにする。


佐志駅付近の高架橋。
部分的に途切れている部分はもともと造られていなかったのだろうか。

市街地を抜けてもあまりかんばしくない流れの中、何とか13時半には唐津に着いた。唐津から呼子へ向かう国道は204号、市街地をバイパスする区間は真新しい片側2車線の立派なものだ。しかしそれもまもなく突然プツリと途絶えてしまい、細い連絡用の迂回道で西唐津駅付近の204号の旧道へ連絡する。迂回路との分岐部は真っ直ぐに山へ向かっており、その方向がちょうど呼子線の路盤がある方向である。唐津市役所で聞いた路盤の国道化の計画はこのバイパスの延長計画なのだろう
建設された西唐津より先の呼子線のAB線区間は15.6Km。佐志、肥前相賀、肥前湊、屋形石、そして呼子の5駅が設置される予定だった。西唐津を出た呼子線はすぐに第1、第2唐津トンネルを抜けたあたりが佐志駅の予定地付近である。204号を走っていると左手に高架橋らしきものが見える。これが西唐津以西で初めて見る路盤だ。しかし、よく見ると、途中でブッツリと途切れている。「ここは建設途中なのか。」と思い路盤の近くへ行こうとして、県道切木唐津線の方へ左折すると、山の上から見下ろせる位置に着いた。

第2唐津トンネルから出てきた路盤は緩やかにカーブを描いたところでプツリと途絶えている。上からではなく近くで見たいので、元来た道を引き返して探すのだが、この付近は住宅地の中を高架で抜けており、道に迷ったあげく、結局、国道204号に戻ってしまった。全体の時間が少ないので、ここは帰りに時間があったらもう一度立ち寄る事にして(結局帰りにはその時間はなかった)とりあえず、先に進む事にした。この途絶えているのが元々なのか、壊されたものなのかは近くまで行けなかったので分からなかったが、この先の肥前湊付近の高架橋が壊されていたので、もしかしたら壊されたものかもしれないが、確証はない。
呼子線はこの後、第1、第2唐房トンネルを抜け、鴨川トンネルを抜けたあたりで玄界灘へ向かっってまっすぐ伸びる区間に出る。道路のほうは唐房入口の交差点を左に曲がり、少々登ったところから、川島令三氏の「幻の鉄路を追う」の表紙を飾っている写真と同じ景色に出会える。その写真は204号から伊万里方面へ抜ける県道23号(唐津呼子線)から撮ったもので、海、空、山へ向かって真っ直ぐ伸びる高架橋は、未成線を象徴するかのようだ。


真っ直ぐに玄界灘へと伸びる高架橋


再び204号に戻り、204号に戻る。唐房入り口の交差点を県道方面に左折するとさっきの景色の地点に出るがこちらへ行ってしまうと呼子には行くが、路盤と沿った道ではないので注意されたい。この先の呼子線の路盤を見るにはこの交差点を右斜め方向の若干下り坂の道に入る。唐房入り口交差点を曲がり、少々行くと海岸線沿いをゆるやかなカーブを描く路盤が現れる。ちょうど路盤の下は幸多里浜海水浴場で 、夏休み最後のレジャーを楽しむ家族連れを多数見かけた。海水浴客の後ろを列車が走る。開業して列車が走ってきたら画になる区間である。玄界灘に沈み行く夕日を浴びて輝く高架橋をバックになんとも哀愁に満ちた光景であった。


海岸を行く。列車が走ってきたら画になる区間だ。


海水浴場を過ぎると、築堤に移り、しばらく行くと肥前相賀。そこから第1、第2湊トンネルを抜けて田園に出たところが肥前湊である。ここの田園を抜けて第3湊トンネルに入るまで、高架橋で抜けるのだが、道路と交差する部分が無残にも壊されている。どうやらここが「旅」誌付録の「未成線大全科」の表紙を飾ったところのようである。もともとこんな感じで作りかけだったのかなとも思ったが、壊された断面は白く、新しく、またガレキが転がっている事から最近取り壊されたものと思われる。後で「幻の鉄路を追う」を見たところ平成8年8月撮影の写真にはちゃんと連続した高架橋として写っている。今年の春に発売された「未成線大全科」では壊された写真になっていたので、去年の年末から今年の冬にかけて壊されたのかもしれない。

 
高架の下はちゃっかり農道として
使われていた。

無残にも壊された高架橋。断面は新しい。
 

「未成線大全科」の表紙と同じ写真を撮りたいと思い、高架橋の下に車を止め、第3湊トンネルの入り口付近まで上ってみる。トンネルの方へ向かって車1台がやっと通れるような道(といっても多分これは軽トラックの轍だろう)が草を踏み分けて続いているのだが、それが高架橋の下に潜り込んで続いている。今は清算事業団の用地だから勝手に使用できないのだが、農道として使っているのだろうか。高架橋の下には、雨をしのいでいる農機具もみかけた。ちゃっかり軒先を拝借しているわけだが、どうせ使われない高架橋なのだからこのくらいなら清算事業団も文句は言えないだろう。

道路との交差部分だけが壊された肥前湊駅
付近の高架橋。先に見える路盤が広くなっ
ている部分が肥前湊駅の予定地。

さて第3湊トンネルの入り口付近に登って唐津方を見ると、なるほどここが「未成線大全科」の表紙を飾ったところだ。まっすぐに延びる高架橋は2個所の道路と交差部が取り壊され、その先に肥前湊駅の予定地と思われる幅の広い築堤が見える。「もったいない」
築堤を降りて車の所に戻ると、水路の向こう側に役人風の男性が立っており、車に入ろうとすると

「ちょと」

と呼び止められた。

「まずい叱られるか!」

と思ったが、水路と高架橋の写真を撮りたいので車を退けてほしいとの事。車を移動した後、今度はこちらから話し掛けてみた。この男性はどうやら本当にどこかの役所の人らしく、何でもトンネルの湧水が高架橋の下の水路を流れており、それを水田で利用している。高架を壊して農道にするのだが、高架を壊すとその水路も改修しなければならないので、住民に説明するための資料を作っているとの事だ。なるほどさっき見た道は農道ではなく勝手に使っているだけだったのだ。多分高架を壊して舗装された農道を作るのだろう。普通の道路は単線規格の用地では狭いが、農道なら、すでに高架下を農道として使っている人もいたのだから単線規格の用地でもその用途に絶えうるだろう。さらに他の区間でも壊すところがあるのかと聞くと、将来的には壊せるところは全て壊し、切り通しの法面も埋めてしまうそうだ。

 

なるほどいい事を聞いた。その男性にお礼を言うと車に戻り、先に進む事にした。ところが車に乗ってから「どこの役所」の人か、また高架橋の一部を壊したのがいつかを聞き忘れてしまった事に気づいた。男性の方へ戻ろうと思ったが男性もすでに車に乗りこんでしまい、車を止めてもらってまで聞く気にはなれなかったので、しばらくそこに待機して、車の後を追わせてもらう事にした。

車は運良く呼子の方へ向かうようだった。肥前湊から先は呼子線はトンネルで抜けており、姿がつかめない。一方、道路の方は七ツ釜付近から曲がりくねりながら、小さな峠を呼子線の上で越える。この辺でトンネルから出た路盤が見えるはずである。七ツ釜への道の分岐を過ぎたところで例の男性の車は路肩に寄って止まってしまったのだが、路盤の姿は見当たらない。別の仕事でとまったのだろうと思いその場は追い抜いてしまった。しかし車を追い抜いても路盤はなかなか見えてこない。手元の資料では肥前湊から約3キロで屋形石の駅に着くはずなのだが、車のメーターで計って4キロを越えても見当たらない。これは行き過ぎたと思いUターンして、地形から「これぞ路盤が出てくるか」と思った小道に入ってみたのだが、結局もとの国道204号に戻ってしまい。この時は路盤を見つける事ができなかった。

 
柱状節理の玄武岩がそそりたつ崖に七つの竈が口を開ける七ツ釜。
屋形石駅予定地付近にある。 

せっかく唐津まで来たのだからこの辺で路盤探しはお休みにして、七ツ釜を見てみる事にした。七ツ釜は例の男性の車を見失った付近から小道に入りしばらく行ったところだった。最寄り駅予定地はは屋形石だろうが、駅からだと結構歩くかもしれない。七ツ釜は、唐津市北部にある海蝕窟で、柱状節理の玄武岩がそそり立つ岩場に7つの竈のような洞窟が並んでいる。海に半分沈んでいるような竈の周辺の水は透き通った青であり、非常に美しい。空も雲ひとつなく晴れ渡っており、全く運のいい日に来たものだと思った。今年は台風の当たり年のようで、九州入りの直前にも超大型の台風が九州を襲っていたのだが、運がいいことに私が九州に上陸してからは、晴れた日ばかりで、厳しい残暑が続いている。玄界灘の青い海、青い空、そして七ツ釜周辺の奇岩と「なんと絶景な事か」。こんな観光資源の豊富な地域を走っていながら、ついに開業でずに姿を消してゆく運命となった呼子線の事を考えると「なぜ80年代に筑肥線改良と連動して開業させる事ができなかったのか!」と、悔やまれる。


さて時間もない事だし再び車に戻り、国道204号を呼子方面へ向かう。この時も、路盤がないかどうか見てみたのだが、結局見つからないまま、呼子の市街地の入口まで着いてしまった。ここから国道は港のある市街地までちょっとした山を切り通しで抜けるのだが、呼子線は一旦、大きく北に首を振った後、その国道の切り通しのある、小さな山の上の呼子駅を過ぎて国道をまたいで伊万里方面へ向かうはずである。手前の路盤と呼子駅を見るべく、切りとおしの方へは進まずに海岸沿の外周道路へ右折した。しかし、この付近もまたトンネルで抜けているらしく、路盤が見つからない。考えてみれば、肥前湊を出てから全く路盤に会っていない。高規格すぎるのも困り者だと思いながら走っていると。川もないのに橋がかかっている。渡りざまに河床に目を向けてみると、これは川ではない。切りとおしで呼子駅へ抜けている呼子線だ。「ここだ」とは思ったもののUターンできるところを探しているうちに道が工事で狭くなってしまい、更にUターンできないでいると、雑多な朝市通りに出てしまい、いよいよUターンはできなくなってしまった。しかし、こう見ると、賑やかな街だ、通りも活気があるし壱岐へ向かうフェリーのターミナルや、真っ白に輝く呼子大橋の斜張橋も見える。本当になぜここまで開業できなかったのかが悔やまれる。


呼子は朝市で賑わう町、写真奥には壱岐へのフェリ
ーのターミナルや呼子大橋の真っ白な張斜橋がある。
呼子駅の伊万里方の橋脚。これより先は全く手付かずとなっている。


朝市の通りを抜け、再び国道204号に戻り、唐津側に引き返し市街地からの坂を登っていくと切りとおしの両側に呼子線の橋脚が現れた。これは呼子駅を出て伊万里方面へ向かうものだが、呼子駅の先の工事はこの橋脚を造っただけで終わってしまったはずであり、この先には建設された路盤はない。ということは呼子駅はこの左手の小高い山の上にあるはずである。しかし、駅を探して小道に入ってはみたものの結局見つけられなかった。ここで、佐賀へ引き返すタイムリミットになってしまった。今回は計画の建て方を誤ったか、時間がなくてあまり路盤を見つける事ができなかった。呼子駅が見つからなかったのは残念だが、このまま長居すると「さくら」に乗り遅れてしまう。また車で九州入りしているはずのS氏らにも会えたら呼子で落ち合う事にしていたので、名残惜しいが見つからなかった路盤を探しながら引き返す事にした。

 

 
屋形石駅の予定地付近。
路盤が広くなっているのが分かる。

呼子から204号引き返す。往復すれば何か見つかるかもしれないと走っていると、道路の左側を、来るときは気づかなかった路盤らしき築堤が並走しているのが見える。「これは!」と思い左折すると、来るときは屋形石の駅を探して入った道だった。ちょうどトンネルと、トンネルの間から路盤が出ており、また一部の路盤は低く、公団が作ったものと思われる取り付け道路の準備工事の法面が見える。資料と地図で確認してみるとここが屋形石の駅予定地らしい。2度通ると発見があるものだ。
屋形石の駅を後にして、204号を走るとまたしても来るときは見えなかった高架橋が左手に見える。しかもここはあの役所の男性の車が止まった付近だった。やはりあの男性は路盤の調査をしていたらしい。ちょうどここは、第3湊トンネルが呼子側に口を開くところで、先に見える屋形石トンネルを抜けて先ほどの屋形石の駅に出るのだろう。





七ツ釜への道路が分岐する付近を過ぎ肥前湊を過ぎて、小さな山を越えて再び相賀に出る、だいぶこの付近の地形と地名を覚えてしまったものだ。肥前相賀付近を過ぎるとあの海岸線を路盤が走る区間だ、S氏とはこの先の海岸沿いの呼子線の高架橋が見えるセブンイレブンで待ち合わせにしていた。まもなくS氏の乗ったレンタカーのスターレット(これが所沢で借りたもの)がやってきた。S氏らとともに再び浜に降り立ってみた。本当に今にも列車が走ってきそうな高架橋だ。S氏らも走ってくる列車を思い浮かべながらシャッターを切っているのだろうか。智頭急行や北越急行が開業し、今このように構造物が残っている未成線は開業が絶望的なものばかりになってしまったが、そんななかでも開業の夢を語るのが未成線めぐりの醍醐味でもある。玄界灘にしずみ行く夕日を浴びて輝く高架橋をバックになんとも哀愁に満ちた光景であった。




呼子線(4) 路盤の今後の処遇

リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年8月に取材されたものです。


取材1997年8月
ムーンライト松崎

幻の鉄道建設公団AB線
呼子線




(4)路盤の今後の処遇

今後の路盤の処遇だが、すでに壊してしまっているのを見てしまった以上、開業の可否すら論じる事ができなくなってしまった。しかし何度も言うがもったいない。今年の秋は土佐くろしお鉄道の宿毛線が開業したが、この呼子線は宿毛線よりも採算性がいいのではないのだろうか。電化すれば博多まで1時間40分程度で到達できるだろうし、また下り方向の呼子方面にも七ツ釜や呼子の朝市、壱岐へのフェリーといった観光資源が豊富である。

第3セクターとしての開業を考えなかったのかと唐津市を訪れた折に、担当の方には聞いてみた。開業できない理由を丁寧に説明してくださり、その事自体は誠意があって感じが良かったのだが、話している内容は今の時代鉄道など利用する人はなく、採算が取れないのは目に見えており、建設は不可能だとの主張で建設に関しての意欲が感じられなかった。どうやら、赤字必至のやっかいな第3セクターなど建設したくないのが本音だったらしい。このあたり、赤字の転換第3セクターが問題となっている昨今、AB線を引き継いで実際に開業した線区は、収支予測云々より、地元の雰囲気盛り上がり次第で決定されていったきらいがある。盛り上がらなかった線区はこのように立ち消えとなっていったのだろう。

こう未成線の再生の現場で感じるのは開業できるも、できないも地元の意欲次第だという事である。以前訪れた岩日北線の路盤を抱える山口県の錦町は、すでに出資している開業区間の錦川鉄道の経営すら危ないのに、その先の未開業区間もなんとか公共交通機関として再生できないかと模索していて、そこでは相当の熱意を感じた。地元住民の意識が高まって、自治体が腰を上げなければ第3セクターの建設はありえないのである。

JR化10年を迎え、かつての第3セクターの優等生と言われていた三陸鉄道でさえ赤字基調となり経営は厳しい。また、鉄道に限らず第3セクターによる事業の赤字が社会問題となりつつあり、マスコミをはじめとした世間の目も冷たくなってきた。しかし、住民の足としてまた地域の活性化として役に立つなら、赤字覚悟でも建設してもよいのではないだろうか。観光資源や通勤の便など付加価値が高いこの呼子線の区間は赤字覚悟でも建設すべき区間だったのではないだろうか。すでに90%以上が完成している路盤は取り壊され、その跡地は国道のバイパスになるという。投入されるのは税金である。開業寸前だった鉄道施設を壊し道路を建設する。用地の一部は買収済みとはいえ、第3セクターの赤字など消し飛ぶ程の経費がかかる道路工事がおこなわれようとしている現場は、路偏重財政という日本の体質を端的に現していた。





2015年7月18日土曜日

岩日北線(1) 概要


リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年2月に取材されたものです。

取材1997年2月25日
ムーンライト松崎


幻の鉄道建設公団AB線
岩日北線

(1)岩日北線の概要






岩国から第3セクターの錦川鉄道錦川清流線に乗り終点の錦町に着くと前方に、使われていないトンネルの口がポカンと開いているのが見える。それこそが工事がほぼ完成していながら、凍結され放棄されている岩日北線の未開業区間なのである。これは廃線跡のトンネルではない。完成しておきながら列車は1度も走った事がないいわば「未開業」のトンネルなのだ。

 今の錦川鉄道の前身である国鉄岩日線は、山陽本線の岩国から錦町、六日市町を経て山口線の日原をつなぐ陰陽連絡線の一つとして計画されていた。岩日線の最初の区間の開業は戦後の1960(昭35)であり、岩徳線川西から河山までが、続いて1963(昭38)に現在の錦川清流線の終点でもある錦町までが開業している。残る錦町-日原間は岩日北線と称され、鉄道建設公団の手により建設が進められ、1965年(昭和40)年に錦町-六日市間が着工された。錦町-六日市間の工事は順調に進み、トンネルや高架橋、築堤等はほとんどが完成し、後は線路を敷くだけといった段階に進んでおきながら1980年(昭55)に国鉄再建にからんで工事が凍結されてしまった。

 この岩日北線のように鉄道建設公団の手により着工されていながら、1980年(昭55)に工事が凍結された路線は全国で36を数え、その中にはこの岩日北線の一部区間のように大部分が完成していたものもあり、各地にその遺構が残っている。それらの中には、三陸鉄道や阿武隈急行、目新しい所では智頭急行や北越急行のように地元が引き継ぎ、第三セクター鉄道として開業した(する)ものもあるが、大部分の路線は開業させたとしても、採算がとれないとして、建設途中で放棄されてしまったままである。それらの路線は近代的な路線として、智頭急行や北越急行がその恩恵にあずかったように、近代路線として、危険な踏切を基本的に廃し、山岳地帯は多くのトンネルで貫き、平地は築堤や高架橋で貫いているのが特徴である。そんな立派な設備が山間に放置されていたりしているのだから驚きである。

今、廃線歩きがブームであると言われている。鉄道建設公団が着工した未開業区間も一見、廃線跡と同じように見えるが、これらは廃線ではなく回生の余地を持つ永遠に未完成の路線であり、廃線跡とは違う哀愁を漂わせている。何年前だったろうか、何かの雑誌で現在は智頭急行線となっている智頭線がまだ工事が凍結されたまま、放置されていた頃に、そこを探索した少年の書いた記事を読んだが、彼は

「ここを本当に列車が走る事があるのだろうか」

と思っていたようである。そんな所も今では工事が再開されて開業し、大阪と鳥取地区を結ぶ動脈路線として成功してしまっているのだから驚いてしまう。このように未開業区間は死んでしまった路線である廃線跡とは違い、これから開業する余地はあるのかと思い巡らす事ができるのだ。現在のところ、今度のダイヤ改正で開業する北越急行以外で明るい題材を提供してくれる路線は無いようだが、このような未開業区間を実際に見て回るのも面白いかもしれない

かくいう自分自身、大学に入るまで、公団の建設した未開業区間については、智頭急行が開業した事や、三陸鉄道や阿武隈急行の一部が公団の未成線だった事以外はほとんど認識が無く、全国にここまで数多くの遺構が残されているとは知らなかった。私の所属する鉄研の先輩に全国の未成線をまわっている方がおり、その先輩に廃線跡を巡るくらいなら絶対に公団の未成線へ行った方が面白いと言われていたのだが、ボケーとしていたらもう1年が過ぎてしまった。そんな状況で鉄研の4年生の追い出し旅行へ山陰地区へ向かう事になった。このコーナーは当初、一畑電鉄で出雲市から松江温泉、宇井渡船場を経て境港へ至る旅行記を書く予定だったのだが、その先輩が岩日北線の未開業区間へクルマで連れて行ってくれるという話になったので急遽、この企画に変更された。そんな訳で、このコーナーでは、そこで見た物を中心岩日北線問題を考えて行きたいと思う。結局旅行の行程は大きく変わってしまったが、それ以上に公団の未開業区間に関するノウハウをいろいろと聞く事が出来たので大きな収穫であった。



先に述べたとおり、国鉄岩日線は1963年(昭38)までに現在の錦川清流線の終点である錦町までが完成している。それより先の区間は1962年(昭37)に錦町-日原間が調査線に編入され、1964年(昭39)には工事線となった。実際の工事は先行して錦町-六日市間が1965年(昭40)に鉄道建設公団の手により着工された。工事の大部分が完成しておきながら、AB線のため、1980年(昭55)全国のほかの36路線とともにに工事が凍結されてしまった(よく言われる55年凍結路線)。

一方、既に開業していた錦町までの岩日線区間も第2次特定地方交通線に指定され存続の危機にさらされる事になる。それを受け、地元ではイベント列車の運行や地域イベントの開催するなどの熱心な乗車運動が繰り広げられ、期間中のイベントとしては成功したようだが、結局、利用者の定着には結びつかず、1985(昭60)年度には輸送密度が1,000人を割ってしまう事になる。鉄道としての存続は厳しいとの調査結果だったようだが地元の熱心な鉄道へのこだわりにより、1987年(昭62)4月1日に第3セクターの錦川鉄道株式会社が設立され、同年7月25日から営業を開始した。

その間、岩日線の存続が優先され、岩日北線の計画はストップした状況が続いていたが、錦川清流線の開業後の1988(昭63)年12月に錦町清流線を育てる会が「岩日北線に関する委員会」を設置し、すでに路盤が完成している六日町までの区間を延長できないかの調査を始めた。しかし翌年には現在の清流線の厳しい経営状況の中、鉄道として延長開業しても採算がとれないとして、同区間の延長を断念している。以後、岩日北線の遺構の処理は錦町と六日市町にゆだねられる事となる

この岩日北線の未開業区間沿線には雙津峡温泉があり、多数の観光客が錦川鉄道の主催するイベントで錦町からバスで乗り換えて向かっているようである。錦町ではこの動きに目を付けて既にほとんどが完成している岩日北線の路盤を利用して、何とか公共交通機関として残せないかと模索している。1995年(平7)から1996年(平8)年にかけて地元TYSテレビ山口による地元への放送やTBSによる全国放送等で何とかこの設備を生かせないかとの意見を募集したところ、トロッコバスやサイクリングロード、果ては流れるプールなどの珍意見も出たようだが、公共交通として残したいという錦町を満足させる題材はまだ無いようである。

一方、六日市町側では、この遺構の処分を決定し、一部を取り壊して公共住宅を建設してしまった。六日市町側ではこの路盤の有効活用さえも断念したようである。



次回より現地調査

岩日北線(2) 現地の状況1


リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年2月に取材されたものです

幻の鉄道建設公団AB線
岩日北線


(2)現地の状況その1




では錦町から六日市まで計画線ぞいにたどってみる事にしよう。まず錦町駅から。錦町は前述のとおり、第3セクターの錦川鉄道錦川清流線である。この清流線のホーム端の車止めから見えるトンネルが未開業区間の始点の広瀬トンネルである。全長は1.7Kmあり、宇佐川沿いに迂回する国道187号に対してトンネルで一気に反対側の出市へと抜けている。何の事は無いトンネルだが良く見ると、信号ケーブルのようなものが通っている。「こんな開業準備工事が!」と一瞬思ったが、後で出市側から見ると近くに変圧トランスのようなボックスがありケーブルは近くの電柱へとつながっている。なるほど山間に電柱を立てるより安上がりだ。(しかしすさまじくデカい共同溝だ。)

錦町は第3セクター転換された錦川鉄道の終点である。

車止めの先に早速、未成トンネルが見える。

広瀬トンネルは電線の通り道として利用されていた。


出市に出た岩日北線は大野川沿いに最短距離で六日市側へ抜ける国道187号に対して国道434号とともに宇佐川沿いを上って須川地区から全長4.6Kmの六日市トンネルで六日市へ抜けている。錦町の宇佐川沿いの地区がルート選定の際に要請したのか、それとも勾配の関係からか、若干、遠回りをしている。

国道187号を錦町側から走って来ると国道434号との分かれ目付近で突如として山間から高架橋が出てくる。ここが出市駅の予定地付近である。近くの道を上って行くと、ホームの土台部分が完成している出市駅を見る事ができる。公団の工事はここまでで、以後のホーム上構造物、取り付け部の階段、駅舎などは事業者か地元の負担となる。したがって、築堤上にある他の周防深川、下須川、高根口の3駅はホーム土台等の「ここが駅」と特定できる構造物は無い。あいにくの曇り空だったが、山と山を高架とトンネルで次々に貫いている路盤を見ていると自転車でカッ飛ばしたくなってしまう。一見頑丈そうに見える橋も、良く見ると竣功以来、長い間管理者がいないまま放置されていたからか、欄干が至る所で朽ちて外れているなど、危険な個所が見受けられたので、よりかかたりして万一、落ちてしまったりしたら、公団も清算事業団も補償をしてくれないのでご注意願いたい。

出市駅付近の高架橋。

高架駅はホームの構体もセットで作られている
AB線独特の高い高架位置にある駅である。


さて宇佐川沿いにもう少し上ってみる事にしよう。深竜寺トンネルを抜けたあたりに周防深川駅があるはずだが、どうも辺りからは確認出来なかった。もしかしたら写真の位置ではないかもしれないがいちおうこの付近という事にしておく。ここで面白いのは、路盤が斜面沿いを通っているため、元からあった道が路盤をオーバークロスするように作られている。この道路部分も公団の建設のようだった。ちなみに写真の左にはお寺があるのだが、工事の際、一部を切り取られたのか、この寺のコンクリート壁に完成年を示す公団の刻印を見つけた。先の道路のように建設にあたって影響を受けるインフラも公団が作っているようだが、お寺の土台とは恐れ入った。

ところで、この周防深川駅予定地付近には雙津峡温泉があり、そちらへ向かう観光客も多いことから錦町としても何とかこの路盤を生かせないかと考えているようである。錦町駅前から途切れる事無く続いている路盤を見るとバスを走らせても良さそうな気がするのだが、ここまでの道路がキチンと整備されている現状を考えるとなにもこの路盤を改修させてまで走らせるメリットは無いように思える。むしろ遊歩道的な物の方が良いのか。しかし遊歩道やサイクリングロードとして整備するにも、高架部分は腐った手すりを交換しなければだし、長いトンネルは照明が必要だろう。金をかけて整備しても利用にあたって料金を取る訳にはいかないし、第一温泉に行くような客がここまで徒歩や自転車でくるのか。難しい。

周防深川駅付近の道路のオーバークロス橋

譲渡へ向けての調査か
国鉄清算事業団と思われる姿が見えた




岩日北線(3) 現地の状況2 まとめ


リメイク_リバイバル_アーカイブス
この記事は1997年2月に取材されたものです


幻の鉄道建設公団AB線
岩日北線
説明を追加

(3)現地の概要その2



さて須川地区へ向けて先にすすんでみよう。周防深川駅付近で国道434号は路盤をアンダークロスする。出市駅付近もそうだったが道路上には立派な高架橋で越える路盤が見える。一見立派で、何事にもびくともしないように見えるが、20年間管理者がいないまま放置されてきたわけであり、阪神大震災の時の山陽新幹線の高架橋がそうだったように、絶対に崩れないとは言えない。そのような危険性を考慮してか九州の呼子線など一部の未開業路線では道路との交差部分を撤去している所もある。錦町もこの路盤の有効的な活用法が無い場合は清算事業団と協議してこれらの路盤を撤去する事も考えているとの事で、まず撤去されるとしたらこういった道路との交点がまっ先に取り壊されるのだろう。

道路との交点
このような箇所は管理者不在で長期放置すると
危険なので取壊対象となるようである

山間を連続トンネルで抜いてゆく


国道434号は先ほどの雙津峡温泉を抜けると、センターラインの無い狭い道になる。狭くなる分岐点ではトンネル工事と拡幅工事が行われており、道路の方の整備は着々と進んでいるようである。そちらはまだ未完成なのでそのうち旧道と呼ばれる事になるだろう細い道を宇佐川に沿って分け入って行く。路盤も川沿いを大小のトンネルを連ねて真っ直ぐに走っている。やはりこの辺も公団建設線独特の高規格さを見せている。須川地区に入ると道は拡幅工事が完成しており、2車線で進む。下須川、高根口と駅予定地を過ぎ、11Km地点付近で路盤は宇佐川を渡って反対側の山に正面から突っ込んで姿を消している。これがこの区間最長の六日市トンネルで(全長4.6Km)山一つ越えた六日市まで一気に抜けている。

六日市トンネルの錦町側坑口とアプローチの路盤

六日市トンネルの名盤


道路の方はこの位置から六日市へ抜けるのが非常にやっかいで、センターライン無し、すれ違いもままならないような県道で抜けられるのみである。一応舗装はされているもののかなりの旧曲線と勾配が続く。片勾配なのかグイグイ上って来た割には頂上で平地になってしまい、あとは六日市までゆるやかに下って行く。鉄道トンネルのほうも地図で確認する限り、六日市へ向けてゆるやかな片勾配のようである。



さて、六日市トンネルの出口付近で路盤と再会する。トンネルをでたところで、中国自動車道と交差しているのだが、中国自動車道の橋脚は路盤をまたぎ越せる準備工事が施されており、築堤がくぐりぬけている。中国自動車道をくぐったところから先の路盤は無残にも取り壊され、整地されている。このあたり六日市の市街地ともいえそうなところで、六日市町が競売にかけ、一部は共同住宅としてすでに完成していた。錦川鉄道の延伸が断念されたこともあってか、六日市側では、この路盤をとっておいても仕方ないと判断したのだろう。しかし、鉄道が通るとの事で土地を提供した元の地主は一体どんな気持ちでこの現状を見ているのだろう。

もとの路盤も六日市インターの近くで終わっており、中心街とは離れているが、きっとこの辺に六日市駅が出来る予定だったのだろう。

中国自動車道との交点
築堤が残っている

無残に崩された築堤
六日市の市街地では築堤の撤去が進む

造成が終了し住宅が建ち始めた箇所


(4)これからの有効活用の可能性

路盤の現状は以上のとおりだが、今後の展開はどうなるのだろうか。先にも述べた通り、この路盤の処理は錦川鉄道が延長を断念した今、地元である錦町と六日市町に一任されている訳である。六日市町の方はすでに交通機関としての利用をあきらめ、用地を売却し、一部の路盤を取り壊している。今後も何らかの動きが見られそうなのは錦町側である。
錦町の企画情報課の話によると、町としての意見は何とか公共交通機関として残せないかと考えているとの事。しかし、町だけではなかなか名案が浮かばないため、1995年(平7)から1996年(平8)年にかけて地元TYSテレビ山口による地元への放送やTBSによる全国放送等で何とかこの設備を生かせないかとの意見を募集したところ、トロッコバスやサイクリングロード、果ては流れるプールなどの珍意見も出たようである。しかし、町の財政上の問題もあって、老朽化が進む、橋梁やトンネル等の改修費用の負担だけでも大変で、ただ単にバスを走らせる訳にもいかないらしい。事実トロッコバスなどとして利用するにも周辺の道路が整備されている以上、路盤を改修してまで走らせるのはどうかと思う。そういった意味で交通機関として路盤を利用するならば、赤字前提でまず採算性は度外視しなければならない。そんな体力が果たして錦町にあるだろうか。

ところで少々話はそれるが、川島令三氏の幻の「鉄路を追う」(中央書院)でもこの岩日北線計画が紹介されており、錦川鉄道から岩日北線、山口線を標準軌化してミニ新幹線気動車を走らせようという壮大な案があったが、私はこれは受け売りの領域を出ないと思う。確かに錦町-六日市間の路盤の大部分はそのまま残っているが、南半分は第3セクターに転換され、しかも会社の存続に関わるほど経営は厳しい。しかも六日市-日原間の約56Kmは全く手付かずであり、高規格の路盤が残っているのは岩日北線計画の全72Kmうちの4分の1にも満たない16Kmである。間南は山口県、六日市より北は島根県と自治体が違いお互いの歩調は合っていない。川島氏の提唱する新岩国から東萩および津和野までの直通計画は直通の相手側の津和野と萩には六日市-日原の未着工区間に手をつけるほどの都市であるとは言えない。むしろ九州方面からの直通の便を図って、山口線の高速化を考えた方が合理的なのである。川島氏は経営努力により黒字経営が可能とソロバンをはじいているが、私は黒字経営は不可能と考える。山口、島根両県が出資した高速鉄道計画もまず出てこないだろう。なにはともあれ、現実的に進んでいる路盤の活用計画は錦町レベルで、「取り壊すのはもったいないから何かに使おう」という考え方のみである。
自分は実際にはサイクリングロードや遊歩道のようなような利用方法しか考見出せないと考える。錦町の駅前に町営のレンタサイクルを設け、高架部分は柵を強化(実際、柵が朽ち果てて壊れている所があった。)トンネルには照明を設ける。1km以上のトンネルで照明設備を取り付けるのが大変なら、そういったところは平行している一般道を迂回すればいい。もちろん料金を取る訳にはいかないが、下手にバス等を走らせて大赤字を出すよりかえって経済的なはずである。幸い路盤は宇佐川に沿って走っているので夏の渓谷を自転車で風を切って走ると爽快だろうし、沿線に温泉もあるので、なかなか話題性もある。全国のこのような遺構を抱える自治体の中で、「どういう利用法でも残そう」という気運が実際にあるだけでも珍しく、評価できるので、町の厳しい財政事情もあるかもしれないが、せっかく作った路盤なのだから、ただ単に取り壊して売却すると安直に考えるのではなく、路盤の特性を生かした活用法を採用してもらいたい。

 

おわり



2015.07.18 追記

2002年に錦町-周防深川駅までの間は、雙津峡温泉への観光公園施設として、錦町により再整備が行われ、「とことこトレイン」の名でタイヤ付き遊覧車の運行が行われるようになった。実際の営業、運行は錦川鉄道へ委託されている。
土日祝日を中心に運行。鉄道事業法にもとづく、鉄道ではなく、公園の遊具施設として運行されている。